現 象>目 撃者の証言>ツングースカ物体の 目撃者を紹介します

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  目撃者の証言                                              


こ こでは実際にツングースカ物体を目撃しただけでなく、音波だけを聞いたり感じたり、あるいは震動だけを体験した人。異変後の明るい夜の目撃者。またはその 体験者から直接話を聞いた人の話もまとめて目撃者の証言とします。(地名の表記は知名度の高いものはカタカナ、あまり知られていないものはアルファベット のままにしてありますが、これも人名同様私の気分次第です)爆心地に近づくにつれ「チュム」という言葉が多く出てきます。これは、数本の丸太を円錐形に立 て、それをトナカイのなめし皮で覆いかぶせて作った軽い移動家屋です。現在でもバナバラのクーリック博物館の庭で見ることができる筈(?)です。

チュム

--- クーリック博物館の庭のチュム ---

 .目撃情報の収集
 2. 爆心地から1301km以上の目撃報告
 3. 爆心地から 1001〜1300kmの目撃報告
 4. 爆心地から 801〜1000kmの目撃報告
 5. 爆心地から 601〜800kmの目撃報告
 6. 爆心地から 501〜600kmの目撃報告

 7. 爆心地から 401〜500kmの目撃報告
 8. 爆心地から 301〜400kmの目撃報告
 9. 爆心地から 201〜300kmの目撃報告

10. 爆心地から 101〜200kmの目撃報告
11. 爆心地から51  〜100kmの目撃報告
12. 爆心地から 〜50kmの 目撃報告 

 

.目撃情報の収集

最 初にアンケート用紙を配布して目撃情報を集めたのはイルクーツク気象台の台長ヴォズネンセンスキー(A.V.Voznesensky)で、事件の直後から 情報を集めています。その結果は1924年に発表されました。ツングースカ事件の調査の先駆者クーリックは1921年から27年と41年にアンケートを実 施しています。
また1924年にポドカーメンナヤ・ツングースカ川流域を探検した地質学者のオブルチェフ(S.V.Obruchev)もアンケートを実施して目撃情報を 集め、森林破壊の地域を推定した地図も作成しました。さらにイルクーツクの北方民族援助委員会のスースロフ(I.M.Suslov)もエベンキ人に質問し て情報を集め、事件の起きた場所の地図を作成しました。
その後、
総合自主探検隊(KSE)が多くの目撃情報を集めています。
時間がたってからの目撃報告の中にはかなり混乱したものも多く、夕方に目撃したと勘違いしたりしています。これは目撃者の中でツングースカ現象以外の別の 現象と結びついての混乱だと思われます。また飛行経路も
そのまま信じる訳にはいかないものもあり注意が必要です。

2.爆心地から 1301km以上の目撃報告

数 字は緯度、経度、爆心地からの距離、爆心地からの方向(北から時計回りの角度)です。

2 −1 52°23′ 83°39′ 1453km 237°39′
T.F.Zuev が科学アカデミーに宛てた1961年12月1日付けの書簡。
「ツングースカ隕石の落下は私が16歳のときであった。その飛行を私自身の目で観察した。そのとき私はシベリアの、現在のBruzhentsevo村に住 んでいた。流星体は南東から北へ飛んだ。私がいた場所から見て40〜45°の高度のところを白く灼熱したような色(または白に赤味がかった色)で、大きな 本体からその10倍以上の尾を引いて彗星のようであった。この物体から形成された跡は強烈ではなかった。」

2 −2 51°38′ 84°44′ 1468km 233°16′
1972年にKSEのYu.L.KandybaがBiisk市の目撃者K.I.Nikanorovich の証言を記述した。
「1908年6月30日は快晴で干草の取り入れの真っ最中だった。我々の村 Alexandrovka は谷間に沿って延びている Tikhai 川の上流にある。午前7時には太陽はすでに昇っているはずだが山蔭になっているためまだ太陽は見えなかった。突然空に火球が出現した。そして飛行の速さを 増すとともに輝きも強くなった。その方向は北東の空で、火球の大きさは月のようであったがそれよりも明るく、飛行速度は非常に速かった。この火球により全 ての場所はとても不自然な光に照らされた。そしてこの光は一定ではなく、脈動し、突発的に明るさが増した。またこの火球の飛行中に、うなり音をともない不 自然に揺らめくこの光と雑音に恐怖を感じた。犬は犬小屋に突進し、ガチョウは大きな声でガアガア鳴き、馬は麦畑から逃げ出した。通りの人々は走り出し、そ して空を見上げて当惑した。その後しばらくして不自然な雑音が聞こえ、地面が震動し、遠い雷雨のようなとどろき音が聞こえた。空の火球の跡はゆっくりと薄 れ、夕方までにはほとんど見えなくなった。この変わった現象は人々を大変動揺させた。」 

*  この2例とも50年以上経てからの報告ですから、すべてを信用することはできませんが、2番目の報告は飛行中の火球の輝きが脈動しているという興味深いも のです。長年KSEで調査をしてきたKandyba氏が記録したものだけに重要だと思います。

3.爆心地から 1001km〜1300kmの目撃報告

数 字は緯度、経度、爆心地からの距離、爆心地からの方向(北から時計回りの角度)です。

3- 1: 52°13′ 106°42′ 1006km 160°59′
Cholpanov(1896年生まれ)の目撃。
「Baikal−Kudara(Selengi川の河口の村)で生まれた。幼児期にMaksimukha村へ引っ越した(その年がいつか正確に覚えていな い)。それがなんだか解からないが尾を引いて飛んでゆく物体を観た。それは頭上から遠く離れて低い位置を東から西へ飛行した。(観察方向:方位角75°高 度11°から方位角15°高度?) 山から離れた高さで飛行しそして消えて見失った。それは星のように輝いていて、大きな尾がついていた(おしまいの方で 見えた?)。大きさは満月より小さく、尾は長く幅は広かった。それは徐々に静かに落ちてゆく星のようだったが、飛行機よりも速かった。火のような赤い色 で、全体は同じ色をしていた。尾の色も連続した同じ色だった。この出来事が昼間だったということ以外は、夏のことだったか冬だったか正確に思い出せない」

L. E.Epiktenova と L.M.BanrakovaがMaksimukha村で質問した。
*  目撃した場所が Baikal−Kudara か Maksimukha かはっきりしませんが、KSE では Baikal−Kudara としています。Baikal−Kudara はバイカル湖中央部の南岸になります。

3- 2: 56°49′ 84°20′ 1101km 253°35′
Zatsev Maksim Gerasimovich (1891年生まれ)が、Nikoljsko村で目撃。
「夏の夕方(夕食の準備中だった)、火のような球が(筋を引いて)東のほうへ飛んだ。球は明るい白色で筋は青白だった。2分後破壊するような轟音を残して 地平線の彼方に消えた。筋の高度は低く、隕石の光跡は2時間見えた。その体験は1904年のことだった」

3- 3: 51°17′ 108°50′ 1149km 155°06′
Farkova Tatyana Nikitichna が Zabaikalsk村で目撃した。
「地面が震動し、ほうきのような星が飛んだ。何年だったかは忘れた」
*1965年、KSEのA.P.Boyarkina と B.I.Vronsky によって質問された回答。

3- 4: 53°23′ 87°23′ 1204km 232°41′
Malyshkina Mariya Pompievna から N.V.Vasillev への1965年12月6日付けの手紙。
観察場所:Kaltan 村 (Shoriya鉱山)

「1908 年我々のShoriya 鉱山の空で起きた現象で私が判るだけお伝えします。それはすでに記憶のなかから多く消えているが、しかし火のような怪物が日没後の空に現れ西から東へ運動 して行った。それは記憶のなかに深く刻まれている。今私が思うに、それは遅く、ゆっくりした運動であった。高い山の向こうの空に火のような、(今思えば) 弾丸のようで、先端は丸く下へわずかに曲がっていた。そして後部から終端は引き伸ばされていた。弾丸の大部分は灰白色の雲状のもので覆われていた。
最初にこの変わった現象を見たのは父で、家族全員を集めるために叫んだ「大きな彗星だ」父は緊張して「彗星」を観ていた。それは高い山の頂上に隠されるこ とはなかった。我々はすぐにこの山の上のことに気付いた、そこでならもっと長く「彗星」を観ることができた。私の父は次のように言った「この巨大なものが 町や村に落下したなら大きな災害になるだろう」
私の父(Pompii Grigorevich Ivanchikov)は地震・気象や山の崩壊、その他自然現象について詳細な記録をモスクワかトムスクへ通信員として送っていたが、どちらだったか覚え ていない。それで父が得たものは花と野菜の種と雑誌「Niva」(畑)だった。次の日父はその現象について書いた。我々が見た「彗星」がいつのことだった か、私ははっきりと覚えていない。1908年は私は15歳だった。この現象が何月だったか覚えていないが、夏から秋までのことで、簡単な服装をしていたこ とは覚えている。そのときはサマータイムであったと思う。我々は「彗星」が飛んだときの音は聞かなかった。空は灰色がかっていた。それはほとんど水平に ゆっくり飛んでいる巨大な火のようであった」

* 現象が起きた時が日没後になっていたり、飛行経路を西から東としておりちょっと混乱した報告です。


4.爆心地から 801〜1000kmの目撃報告

数 字は緯度、経度、爆心地からの距離、爆心地からの方向(北から時計回りの角度)です。
1000km以上の距離の目撃報告は爆心地から南東から南西方向の地点が多いのですが、このくらいの距離から爆心地の北側からの目撃報告が表れます。目撃 報告を爆心地から1°〜90°、91°〜180°、181°〜270°、271°〜360°に分けてみます。

- 1-1: 62°17′ 117°00′ 812km 72°24′
Kitaev Ivan Maksimovich (1890年生まれ)がビリューイ川流域のTyskysで目撃。
「目撃したときは18〜19歳だった。夏の昼間で雲も風も無かった。白色がかっただ円形に輝く物体が空を飛んだ。その輝きは太陽よりは弱く、眼を保護しな くても見ることができた。その物体は頭部と尾部に区別することができた。頭部のほうが明るかった。尾は全部つながっていたが、輝きは同じではなかった。物 体の後から煙は出ていなかった。それは左から右へ飛んだ、速さは飛行機よりも遅かった。衝撃波は無かった。人々はパラダイスについての伝説と関係あると語 りあったが、神は存在しないと思う。ツングースカ隕石については何も聞いていないし、読んだことも無かった」

* 1971年KSEの質問に回答

4- 1-2: 60°22′ 120°11′ 995km 35°18′
Syldyrov Nikolai Egorovich (1895年生まれ)が Abaga村(レナ川沿岸)で目撃。
「1912年の春の朝、明るい物体が空を飛ぶのを見た。それは非常に長く5mくらいで、うなり音を伴なっていた」

* 1970年KSEの質問に回答

4- 2-1: 53°53′ 106°00′ 816km 160°43′
Osipov Vasiliy Ignatevich (1900年生まれ)が Kosogor村で目撃。
「通りで遊んでいたら、北東から北西へ太陽よりも小さい星のようなものが飛び、尾を引きながら落ちた。飛行機よりも非常に速く、地平線に去った。高いとこ ろを飛んでいた。音は聞かなかった。落ちてから2・3時間後、震動があった」

* 1970年KSEの質問に回答

4- 2-2: 53°28′ 106°01′ 860km 161°29′
Zueva Stepanida Semenovna (1900年生まれ)が Manzurka村で目撃。
「9歳のときだった、通りを走っていたとき空に炎のようなものを見た。箒のようなものだった。雷は無かった。そして空は快晴だった。空からの照り返しが あった。それは高い空からの炎によるものだった。そのとき青空に炎が燃え上がって、その炎は約1分間続いた。それは夏のことで、夕方暗くなる前のことだっ た。それは戦争の後の出来事だった」

* 1970年KSEの質問に回答

4- 2-3: 53°32′ 106°00′ 853km 161°26′
Alekseyev Cyril Andreevich (1892年生まれ)が Zuevoで目撃。
「日本との戦争の前に、尾を引いた星が飛んだ。夏のことで、8月か9月の夕方5時頃だった。柵に腰を掛けていると、尾を長く引いたきらめく星が東から西へ 向かった。そして山の向こうに隠れた(小山が多い場所だから)。星の大きさは太陽よりも小さく、尾は乱れていた。色は白く、尾は赤く火のようだった。それ は静かに西へ飛んだ。私が16歳か17歳のときだった」

* 1970年KSEの質問に回答

4- 2-4: 53°20′ 106°11′ 878km 161°02′
Podprugina Uliana Gavrilovna (1895年生まれ)が Kopylovoで目撃。
「13歳か14歳の夕方だった。空に筋状の火が現れ、空が明るくなった。それは飛んでいるうちに、突然明るくなった。火は北の空を右から左に行って、山に 達した。その筋の幅は飛行機ほどひろくない。燃える火のような色で、それは初めは明るかったが、2・3分過ぎてから少し暗くなった。音は聞こえなかった。 地震は覚えている。小屋に3人でいたが、厚い板壁は震動し、棚の食器はとびはねた。小屋全体が揺れ、私たちは恐ろしくなり、祖母は祈った」

* 1970年KSEの質問に回答

4- 2-5: 52°56′ 103°36′ 890km 172°36′
Ruzhnikov.K.N(1903年生まれ)が Kirenskで質問に答えた。
「私自身は何も覚えていないが、伯父が見たことを話してくれた。伯父(Ruzhrikov Yegor Mikhaylovich、1881年生まれ)は、ほうきのような火花の光の筋が飛ぶのを見た。それは最初 Uralskikh山に向かって進んだが、レナ川で方向を変えて落ちた、と言っていた」

* 1967年KSEの質問に回答

4- 2-6: 53°11′ 105°35′ 884km 163°50′
Khogotovskogo 郵便局主任の報告(1908年7月8日付)。
「Khogotaはイルクーツクの南東4露里であるが、1908年6月17日(火曜日)午前9時頃、大砲の発射音のような衝撃音が2・3回あった。非常に 遠方だったため震動はほとんどなかった。同じ現象は北西に10露里離れたShetkulunaでもその時刻に気付かれたが地面は震動しなかった」

* 日付は旧暦、イルクーツク気象台長Voznesensky のアンケートに対する回答。

4- 2-7: 53°28′ 106°01′ 860km 161°29′
Manzurka 村の准医師 K.S.Sergeev の書簡(1908年7月4日付)。
「6月17日の火曜日の12時頃(ポケットに入れた時計は11時43分を示していたが、よく合わせてない)、私Manzurka の地区医院の薬局で普通に仕事をしていた。その日は良い天気で太陽が照っていたので窓の大多数は開けられていた。その窓から轟音が聞こえてきた。大口径の 大砲の発射音に似た、例えば包囲要塞砲からの発射音のようだった。この轟音は短い周期の震動音がついていてそれは東から北へ方向が変わった。この夜、農民 の G.Pershin は正午ころ(太陽の位置によれば)私と同じ体験をしたと言った。Manzurkaの北東2露里で完全に雲がないのに轟音が聞こえたという」

* 日付は旧暦、イルクーツク気象台長Voznesensky のアンケートに対する回答。

4- 2-8: 53°25′ 108°56′ 931km 149°55′
Tolstikhin Ivan Ivanovich (1897年生まれ)が Ust’−Barguzin 村で目撃。
「それは20歳になっていなかったが、いつのことだったか正確には覚えていない、戦争の後だった。小屋にいると、誰かが叫んだ「ほうきが飛んでいる」。見 るとそれが去ってゆくのが見えた。それが夕方か夏のことだったか覚えていない。尾は赤だった、その幅は月の大きさくらいだった。その飛行速度はあまり速く はなかった。高い高度を飛んでいたのだろう。それが落下したかどうかは判らない。それを気付いたときの方位角は315°高度35°で西に向かって行った。 それはどこで消えたか、去っていって隠れたので最後は見なかった。それは雷ではなかった。それは遠くの出来事だったので私たちはあまり驚かなかった」

* 1972年KSEの質問に回答

4- 2-9: 52°18′ 104°18′ 965km 170°13′
Tolstoukhova Barbara Markov (1886年生まれ)がイルクーツク市で体験。
「私が22歳のときだった、子供と家の中にいると地震があった、イコンとランプは揺れ窓はガタガタと震動した。それは夏のことで、初夏の昼間のことだっ た。昼食に戻った夫とその地震のことについて話した。」

* 1969年KSEの質問に回答

4- 3-1: 54°19′ 91°26′ 957km 225°00′
A.Portnyagin が Minusinska 村で目撃したことを、1921年2月1日にL.A.Kulik に報告。

「あ なたからの手紙で質問されたことに回答します。私は大きな星のようなものが空を飛ぶのを見た。1908年であったが、6月の何日だったか覚えていない。午 後に南西から北東に大きな星のようなものが長い尾を引いて火花を飛び散らせて1〜2分間飛んだ。音を伴ない、森を風で揺らした。この音は長く続き、私と家 族は恐ろしい思いをした」

4- 3-2: 54°26′ 91°56′ 928km 223°51′
Bogatko.P.F が Andreev Ivan Adamovich から聞いたこととして1926年12月11日付けの手紙でロシア科学アカデミー隕石探検隊にあてた報告。
「私は、個人的に興味ある出来事が、あなたが何も疑わないとは思わない。農民の多くはその出来事を覚えていた。農民の Andreev Ivan Adamovich によると、1908年6月の草刈期だった。11時または12時、南の方向から異様な音が聞こえてきた。雷鳴に似て断続的に2回繰り返された。彼と家族は草 刈をしていて恐怖を感じた。動物も影響を受けた。それは近くで起こったのではない。太陽は明るく、雲がなく、何が飛んだのか判らない」

4- 4-1: 65°10′ 87°58′ 845km 310°12′

Torgorina Stepanida Matveevna (1902年生まれ)が体験。
「私はTurukhansk で生まれた。それは10歳のときで夏の草刈期だった。地震がありガラス戸が揺れた。人々は草刈の最中だった、牛が鳴き、風が吹き抜け、雲が流れ、雷鳴が 鳴った」

* 1969年KSEの質問に回答

4- 4-2: 64°15′ 87°36′ 819km 303°17′
クラスノヤルスク博物館の前責任者 A.Yu.Tugarinov は1921年10月17日にクラスノヤルスク市に来たL.A.Kulikに次のように伝えた。
「1908年6月17日、私は Turnkhanska 地方にいた。そこはタイガでエニセイ川の左岸で Vereshchagino の方向へ直線で40露里である。夏の静かな蒸し暑い朝で、まったく雲がなかった。6時から7時の間であった。東から鈍い衝撃音が3〜4回、間隔をおいて聞 こえた。それは遠くの大砲を思い出させた。音は非常に異常で、明瞭であったがそれが何かは判らなかった。はじめ雷鳴かと思ったが、快晴の空でこのような音 がするのは不思議に思った。それ故このことを日記に記しておいた。Turnkhanska では2〜3週間でこの話をするものはいなくなった」

4- 4-3: 63°26′ 87°25′ 801km 296°57′
Yudina Praskovia Andreevna (1887年生まれ)が Kandykovo で目撃。
「私は女友達と通りにいた、およそ30歳のときだった。嫁いでいて子供が何人かいた(正確に何人かは覚えていない)
それは非常に長く飛び、その後電光を発し、大きなきのこ雲を照らし出した。それは真直ぐに飛んだ(大半の場所で)それは非常に速かった。多くの太陽のよう であり、もつれた尾があった。太陽よりも明るく、赤色でオーブンの熱源のような炎だった。尾の後から火と火花、しかし熱気はなかった。東から西へ飛んだ。 右岸から左岸へ。衝撃波はなかった。それは非常に恐ろしく、全ての住民は四方八方へ走り逃げた。その後もう一度空を見ると、東から西へ飛んだ跡が、火のよ うになって残っていた。うなり音は判らなかった、夕方まではなかった」

* 1969年KSEの質問に回答

.爆心地か ら601〜800kmの目撃報告

数 字は緯度、経度、爆心地からの距離、爆心地からの方向(北から時計回りの角度)です。
目撃報告を爆心地から1°〜90°、91°〜180°、181°〜270°、271°〜360°に分けてみます。

5- 1-1: 60°45′ 114°42′ 693km 85°39′
Tatarchenko Anfisa Vasilyevna (1895年生まれ)が Lensk市で体験。
「10歳か12歳のときの草刈期時期の昼食のときだった。その日は快晴で非常に天気が良かった。地震が起こり小屋は揺れた。長くこの地震について話し合っ た」

*1970 年KSEの質問に回答

5- 2-1: 54°06′ 105°34′ 785km 162°13′
Nizhne−Ilmsko 村の農学者Kokoulin がイルクーツク気象台の台長ヴォズネンセンスキーに宛てた1908年9月14日(旧暦) 付けの書簡。
「現象に伴なう音の広がりの領域の輪郭をより正確に調査した。Verkholensk の付近ではMukhtue の方向ではレナ川に沿って1300露里も離れても聞かれた。レナ川方向以外のNizhne−Idimske では現象はわずかだった。目撃者は言う、物体が落下した地点(もしかしたらそれはもっと遠く地平線の彼方かもしれない)から黒い煙が立ち昇った。ツングー ス人はNizhne−Karelinskim の村落を放浪しているが、雷が恐ろしかったという。しかしトナカイは普通の雷雨のときのようにわずかの興奮も見せなかった。観察された地震は普通ではな かった。それはかなり大きかった(いろんな場所で大きかった)。建物が轟音で震動しているのに気付いた。流星は東南東から西南西へ飛んだ」

5- 2-2: 53°54′ 103°20′ 781km 173°05′
Chern Pellagea Filippovna (1901年生まれ)がBalaganskで目撃。
「10〜11歳の少女のときのことだった、夏の夕方、小さな丸パン(月より小さい)のようなものが空に現れ動き出した。動き出してからその後ろから針金の ような光跡が作られて行った。それは飛行機よりも速くはなかった。
緑色だったものはそれから赤くなった。それは東から西へ行った。私は地震を覚えている。祖母に来客があり私もいっしょにいた。テーブルの上の皿は動き回っ た、それが10〜14分間続いた」

*1969 年KSEの質問に回答

5- 2-3: 57°47′ 114°11′ 775km 110°57′
Leonov.M.E (1900年生まれ)がBodaybo市で目撃。
「7歳のとき、隕石が空を飛んだ。弓形に飛んだ。隕石に気付いたとき方位角は295°高度9°、去った方位角は250°だった。火のような形と色の球で、 太陽よりも少し小さかった。炎の形の尾が球から離れて行き戻らなかった。そして小さなものが側についていた。隕石は2・3分間飛んだ。先端は丸くなかっ た」

*1967 年KSEの質問に回答

5- 2-4: 54°18′ 103°03′ 735km 174°09′
Konstantinaova Ekaterina Matveevna  (1899年生まれ)がSidohivoで目撃。
「Sidorovoで生まれ、3年生を終了していた。地震については覚えていない。ある日のことだった空は快晴だったが、突然火のような縞が現れた、そし て火花が飛び散り、そして火のような明るい線が現れた。私はツングースカ隕石について今まで聞いたことはなかった」

*1969 年KSEの質問に回答

5- 2-5: 54°28′ 103°12′ 717km 173°15′
Antsiferova Zoya Savelerna (1900年生まれ)がMiloslavke村で目撃。
「生まれた村はUst’-Ude 村より6km下流(アンガラ川)。そのときは少女だった、小屋の中にいて窓を見ると、ヘビのような物体が地平線近く東から西へ飛び去ってゆくところだっ た。音が聞こえた」

*1969 年KSEの質問に回答

5- 2-6: 54°40′ 104°51′ 713km 164°31′

1908 年7月11日(旧暦)にZnamensko 村の郵便局の責任者L.D.Klykov がイルクーツク気象台の台長ヴォズネンセ ンスキーのアンケートに答えたもの。
「1908年6月17日(旧暦)火曜日。午前8時頃(時刻は Zhiganovskim村の電信局と照合した)地下からのうなり音が聞こえた。7〜8秒間続く衝撃が3〜4秒間隔で2回あった。土地の亀裂等はなかっ た。 Znamensko 村の南西方向から空にはっきりした火のような線を引いて落下する隕石に気付いた。隕石の爆発による音は強い雷鳴のようだった」

5- 2-7: 54°30′ 102°03′ 710km 179°15′
Larionov Grigoriy Danilovich (1891年生まれ)がKada村で目撃。
「地震が夏の昼間あった(何月か覚えていない)。地面が揺れたが食器がカチャカチャ鳴ることはなかった。私は尾をもった星が飛んだのを覚えている。森に落 ちたように見えたが(方向は思い出せない)。明るかったが、太陽ほど明るくはなかった。それがどちらの方向から来たのか覚えていない、通りの上に現れたの を見た。多くの人はヘビのような火が飛ぶのを見て話し合っていた。星が飛んだ後に地震があった。ツングースカ隕石については聞いた事がない」

*1969 年KSEの質問に回答

5- 2-8: 60°15′ 114°07′ 670km 90°42′
Plakutina Ludmila Nikolaevna (1899年生まれ)が Khamra村で目撃。
「12歳の少女のときだった。明るい矢のような物が尾から激しい火花を飛ばしながら空を飛んだ。時刻はすでに夕方だった。物体は右から左へ行き鋭い角度で 地平線に突っ込んだ。飛んだ後に煙が残ったが、どのくらいの時間見えていたか覚えていない。雑音はまったく聞こえなかった。大きさは正確には憶えていない が、前に空を飛ぶ飛行機を見たがそれより大きかった。ガラスが振動したか見ていないし地平線上の柱も観察しなかった。地震は覚えていない」

5- 3-1: 56°12′ 91°37′ 790km 233°20′
Nikitina Klavdiya Ignatevna が B−Kemcyuk村で体験。
「14・5歳のときで、草刈期前の、昼食前で天気は快晴だった。小屋の中に居たら小屋が震え、小屋の中の全てのものは揺れ、グラスや皿はガチガチ鳴った。 腰掛けとテーブル、灯明皿は揺さぶられた」

*1969 年KSEの質問に回答

5- 3-2: 59°45′ 94°22′ 719km 220°51′
K.P.Florenskogo と I.P.Firsov の1962年8月25日付けの書簡。
「私は数年間ツングースカ隕石研究の探検作業を見てきた。残念ながら私の手に入るのは新聞と雑誌、不規則な情報だった。この質問に私は興味を持った。なぜ なら私がこの「彗星」の飛行の目撃者であるからだ。そのとき呼ばれてその現象を観察した。私が観察した「驚くべき彗星」についてソ連科学アカデミーに報告 するべきか決心がつかなかったが、今日、私がどんなふうに見えたかあなたに知らせることに決めた。たぶん私の報告は宇宙からの不思議な天体の謎解きに少し の助けになるだろう。
私は1901年6月7日に生まれた。私の父はそのとき石工であり、30年以上鉄道の橋やトンネルを建設した。父と家族はコーカサスからウラジオストックへ 移住した。1908年冬、運命は家族とともに私の父を慌てさせた。そして多くの石工も。シベリア鉄道のKlyukvino駅で橋を建設することになった。 駅から地元の石切場は密林のタイガで45〜60kmのところにあった。タイガには猟師が小部落に住んでいた。1908年6月、日は思い出せない。夜明け前 の早朝だった。我々の仮住居は土の小屋であった。突然異様な音が聞こえ明るい光が空に出現した。子供も老人も通りに走り出て空を見た、市街地の上を南東か ら北西へ飛んでいた。物体は非常に明るく、そして強いうなり音があった。信者はひざを折って叫び、神に祈りはじめた。
隕石が空を飛ぶ様子は大きなほうきのようだった。そして「細い枝」がぴったりとくっついて突き出ていた。我々の見たところ隕石はそれほど高くは飛ばなかっ たように思う。その飛んだ跡に切り離された大きな明るい光線があった。この線は隕石の後からその跡を続けた。それらは全て肉眼でわかったので、それは非常 に地表から近いと感じた。隕石の飛行は我々が観察したところでは地平線に達するまで15分間で、飛行速度はそれほど速くはなかった。確かなことは我々の小 屋の上を飛ぶ隕石はすでに空中で破壊していた。私がすでに述べたように細かく切り離されたものは物体の後を飛んで急速に収縮した。
この事件は私が7歳のときであったが、この隕石の飛行は今日まではっきりと記憶している。それは両親が「天の奇跡」についてしばしば会話をしていたことも 理由のひとつである。そして多くの目撃者はこの現象を戦争の前触れと思った」

5- 3-3: 54°52′ 99°05′ 689km 195°09′
M.Yaremenko がイ ルクーツク気象台の台長ヴォズネンセンスキーに Irgey村の農民の話を伝えた、1908年7月7日(旧暦)付けの書簡。
「昼食の間北側の鉢が振動した。南の方角から激しい雷雨のような強い衝撃音がした。2時間この現象は繰り返された。いくつかのもの、吊り下げられたものは 揺れた」

5- 3-4: 56°31′ 93°45′ 675km 227°37′
E.E.Saryohev は1921年10月11日にクーリックの探検隊員のD.F.Landsbergo の質問に対して次のように答えた。
「そのとき私は皮革工場の責任者だった。夏(春に近い)の8時頃(昼食前)職人といっしょにKan川で皮の毛を洗い落としていた。突然異様な音が聞こえて きた。おびえた鳥の羽ばたき音のようだった。水面には波が立ち、南東方向のAntsyr村の方向(上流方向)へ進んで行った。この後鋭い衝撃音がして地下 から低いうなり音がした。衝撃音は非常に大きく、働いていたEgor Stepanovich Vlasov (現在すでに死去したが)は川の中でひっくり返った。異様な音とともに丸い青みがかった月の半分くらいの大きさの光が空中に現れた。速い速度で FilimonovoからIrkutskの方向へ飛んで行った。光体の後に青みがかった光跡を残した。長くのびたそれは少しづつ消えていった。
光体は爆発することなく山蔭に隠れた。私はその現象の継続時間について注意をしていなかったが、あまり長い時間ではなかった。天気は快晴で風も弱かった」

5- 3-5: 55°18′ 98°38′ 649km 198°33′
Mufina が1908年7月4日(旧暦)にイルクーツク気象台の台長ヴォズネンセンスキーのアンケートに答えたもの。
「体験場所シベリア鉄道のZamzor駅。6月17日(旧暦)イルクーツク時間午前8時頃。崖をダイナマイトで爆発させるような、大砲の発射音のような音 がして、断続的に何度も異様な音が東から西の方へそして北へ行った。周囲ではどんな変化もなかったが、地面の震動には気付いた。

5- 3-6: 56°10′ 96°42′ 635km 217°06′
A.G.Vasilyev がイ ルクーツク気象台の台長ヴォズネンセンスキーに宛てた1908年6月18日付けの書簡。「昨日(カンスク市の)戸外を歩いていて北東の地平線から大きな雷 鳴のような異様な音を聞いた。それはおおよそ2分間続いた。私は急いで家に帰り時刻を確認した、午前7時27分(地方時)だった。このうなり音の間空気は 震動し、風が吹いた。空には雲がなく、太陽は赤るく鮮やかに輝いていた。私は吊り下げられたものを観察したがそれらは揺れていなかった。それから15分間 くらいより弱いうなり音が間隔をおいて繰り返されたがはっきりした地震はなかった。この地鳴りがどんな原因によるものか判らなく、都市や周囲の村の人々は 驚いた」
A.G.Vasilyev は7月3日に再び手紙を書いた。
「6月17日から私はうなり音と轟音に関する良好で詳細な記録を集めた。うなり音と轟音は我々の市とその周囲の村で聞かれたとすでにあなたに知らせたが、カンスクでは全ての人が聞いていたが地震 については誰も気付かなかった。私は今までに情報を集めた、そしてもう一度認める、誰もこれが普通の地震ではなかったといえる。ご参考までにこれを送る」

5- 3-7: 56°10′ 96°42′ 635km 217°06′
Grabchenko Stepan Ivanovich (1897年生まれ)がカンスクで目撃。
「事件は1908年の春午後2時頃であった。天気は快晴だった。家庭菜園に母と兄弟でいた。突然周囲が真っ暗になり、それから黄色になり、強い衝撃があ り、風が吹いてきた。暗くなったときに皆家に走って入った。家の中の全ての皿はガタガタ鳴り、衝撃で飛び上がった。それからは何もなくて雨も降らなかっ た。衝撃波恐ろしくて震動を伴なっていた。その後、話を聞いたところによると。列車の乗客は南西から飛んできたものが北に落ちてゆくものをみたという。2 両の列車は停止した。最初の衝撃音は聴覚障害になるほどだったが、それからもう少し弱い衝撃音があったという。」

*1969 年KSEの質問に回答

5- 3-8: 56°14′ 95°51′ 624km 216°44′
Filimonovo駅の主任 I.I.Ilinsky は1921年10月4日に駅に来たクーリックの質問に対して次のように答えた。
「私は1910年からFilimonovo駅に勤務している、それまではLyalka駅に勤務していた。そこはカンスク駅から東へ14露里にある古い駅で ある。カレンダーに記載された現象(*)はFilimonovo駅郊外で起きた。そして、Lyalka退避駅の上でもないそれは私自身が証人である。その 日私は当直で、カンスクから来る貨物列車No.92をプラットホームで待っていた。突然、激しい空気の震動を感じ、うなり音を聞いた。私は大いに困惑し た。そしてこれを地震または別の自然現象と考えた。No.92貨物列車はこの時刻Lyalkaから1.5露里のところだった。列車の機関士の Mashinist Gryaznov はうなり音と空気の震動に脱線したのかと思い、列車を止めた。
その後、我々の退避駅に到着した彼は列車を調べたが、どこにも破壊されたところはなかった。私は見なかったが、明るい光体についてはそのとき誰かが話して いた。興味深い話で、隕石が落下したのは退避駅から近いと思われた。それで多くの人がそれを捜しに来た。トムスク工科大学から、クラスノヤルスクとイル クーツクからも。しかし石は見つからなかった。落ちてきたと仮定された石は合ったが、それはその地方の種類の石であることがわかった」

*  クーリックが隕石探しの探検にでるときに友人から「1908年6月にカンスクの町付近に巨大な隕石が大音響とともに落下した」と印刷されたカレンダーを 渡され真偽を確かめることを勧められた。

5- 3-9: 55°40′ 98°17′ 617km 201°32′
Fedorov Ivan Platonovich (1901年生まれ)がDogadaevka 村で体験。
「夏の6月か7月だった。強い衝撃がありランプはそれぞれ異なる方向に揺れた。地震だと思った。それは1.5〜2分間くらいであまり長くは続かなかった。 夕方の8時頃ですでにランプが灯っていた。音響は単純な振動音だった。Boguchan のタイガに隕石が落ちたと聞かされた」

*1969 年KSEの質問に回答

5- 3-10: 58°24′ 92°09′ 612km 247°29′
A.A.Bulayov からソ連科学アカデミーに宛てた1962年10月17日付の書簡。
「事件があったのは両親と一緒にエニセイ地域のVerkhne−Pashinskoe村に住んでいた。そこはクラスノヤルスク街道沿いで、エニセイ地域の 都市から10kmだった。私は4歳だったが、非常に感受性の強い子だったので今でも全てのことをはっきりと憶えている。この日は数日前に私たちのところに クラスノヤルスクから私の父の妹の叔母さん Anya が来た。事件のあった日私たちは叔母さんと、離れた山の麓に住む祖母 Marina  のところへ行った。暑かったことを憶えている。私ははだしだった。祖母の家は南に窓が2つあった(太陽が見られるように)。祖母の家に到着してから私は箱に 腰をおろした。それは壁のところで、窓に向かっていた。祖母と叔母は窓際のテーブルについて話し始めた。窓から赤い火の玉が後ろにほうきのような尾を引い ているのが見えた。その球は太陽の2倍の大きさで、うしろのほうきのようなものからそれほど明るくないパイプのような火花が出ていた。そして視野から消え た。私はすぐに叫んだ「太陽が、太陽が落ちる」。皆は窓にいそいだが、火球はすでに墓地の後ろに隠れて、それから尾もともに消えた。家にいた全員は呆然と なり、それが出現したことはこの世の終わりかもしれないと、祖母と叔母は言った。数分間無言で座っていたが何も起こらなかった。その日はいつもの日のよう に何も起こらなかった。それは確実だが、それが何時頃に起きたのか、空は快晴だったのか覚えていない。何も起こらないことが判ったので、元気が出てきて祖 母は戦争について話し始めた。つまりほうきは全ての戦争を掃いて終わらせるためだと……。
……次のことは大人の会話を聞いたのだが、Eniseyske 市の警察には多勢の人々がこの火球を見たと言ってきた。この火球の飛行の角度は天頂から地平線にかけて30〜35°以上ではなかった。火球の明るさは日の 出のときに靄がかかった太陽、飛行速度は私が観察した我々の衛星とほぼ同じだった」

この手紙に対し1962年10月25日付の Zokin の返事は以下の通り。
「貴方の情報は我々のところにあるエニセイ市地域における落下に関する資料を裏付けます。実際にアンガラ川流域とエニセイ地域の町村では多くの人が火のよ うな球−火球を目撃しました。残念なことにこれらの観察情報は隕石の軌道を求めるために役立つものはごく僅かです。貴方の手紙の中にもおそらく誤りがあ り、火の玉を見たのは南方ではなく東方でしょう、その高度は30度以下でした。」

5- 3-11: 58°26′ 92°11′ 609km 247°41′
O.E.Olofinskaya が1927年12月26日にクーリックに次のように伝えた。
「1908年6月30日午後11時、Eniseisk市のメインストリート。1年の12の期間で24時間のうち最も暗闇の時間が訪れていた。それにもかか わらず通りの上には異常な光があり、観察者を非常に驚かせた。この現象は他の民族の間でも注意を引いた。よく知っている家族に会うと、この短い夜の間中 すっかり驚いていた。大通りを通ることと、そこで時間が経過するまで滞在することを勧められた。それにもかかわらず大通りは暗くならなかった、そしてすぐ に夜が明けた」

5- 3-12: 56°06′ 96°53′ 606km 210°51′
Korzun Vasily Yakovlevich (1892年生まれ)が Tinskaya村(カンスク市から東へ75km)で体験。「1908年6月の朝10時、窓が震動した。射撃音がして、馬が膝を折った。普通の雷よりも強 い音だった。北から南へ音が行った。音が去っていろいろなものが終わった。村の誰もが隕石は見なかった。最初は雷かと思った」

*1968 年KSEの質問に回答

5- 3-13: 56°12′ 96°33′ 605km 213°04′
L.Denisenko (憲兵隊の下士官)がイルクーツク気象台の台長ヴォズネンセンスキーに宛てた1908 年7月5日付の書簡。「6月17日午前8時頃、私は Ingash駅の入口近くのベンチに座っていた。突然吐き気がして不快になった。私は1906年の地震を覚えている。それはそのときとまるでそっくりな感 じがした。私はベンチの上で横になったので充分注意がまわらなかったが雷鳴のような音がし、建物の窓は揺れガタガタ音がした。そして2番目、3番目の衝撃 があった。衝撃音はしばらく続いた。その衝撃音は Ingash駅から北東方向で、それはそれほど近くからではないように思えた。これらの衝撃音の前の大きな異様なうなり音は南に去って行った。この土地の 天気は快晴であったが、わずかに吹雪のような雲があり霧のように見えた。それを私は煙と判断した。建物の中に吊り下げられたものが揺れたか、私は注意しな かった」


6.爆心地から501〜600kmの目撃報告

数字は緯度、経度、爆心地からの距離、爆心地からの方向(北から時計回りの角度)です。 

6- 1: 58° 20′ 92°30′ 599km 245°52′
A.Goloshchekin が
イルクーツク気象台の台長ヴォズネンセンスキーに宛てた1908年6月30日付けの書 簡。
目撃場所、Kamenskoe 村。
「午前7時、次のような現象が観察された。北西方向から落雷のような地鳴りが3回聞かれた。それは激震を伴なっていた。私はその数分前に地元の住民が太陽 よりも大きな物体が飛ぶのを見たことを知った。細長い物体は先端から次第に輝きが小さく、その頭部は霧のなかの太陽のような色をしていた」

6- 2: 55° 34′ 101°58′ 591km 179°42′
T.Grechin が
イ ルクーツク気象台の台長ヴォズネンセンスキーに宛てた1908年6月18日(旧暦)付けの書簡。
「6月17日の午前8時、雷のような強い衝撃が数回あり、北側の窓ガラスが揺れた。木は曲がり葉は揺れた。その時は快晴で静かだった。グラスの水はこぼれ ることはなかった、損傷したものはなかった。近所の農民は畑で仕事をしていて北の方向に火球が飛ぶのを見た。そして強い爆発のような衝撃があったという」

6- 3: 58° 03′ 93°02′ 590km 241°40′
Konnykh Stepanida Andreevna(1897年生まれ) がStrelka 村で目撃した父から聞いた話。
「父から聞いたところによると、ドイツとの戦争前の夏のことだった。とおりに立って話をしていると、ヘビに似たものが空を飛んでいるのを見た。核の部分と 尾の部分に分かれていた。明るい炎のようで、尾は長さに沿って明るさが変わっていた。物体の後の煙や光跡は残らなかった。飛行機よりも速く飛んだ。他にも ヘビに似た光を見た人は多勢いる」

*1969年KSEの質問に回答

6- 4: 58° 03′ 93°02′ 590km 241°40′
Postnikova Aleksandr Nikolaevna(1892年生まれ) Strelka 村で目撃。
「それはまだ結婚していない16歳のときだった。Prokopev 記念日から草刈の時期までのことだった。天候は快晴で無風だった。夕方ボートを固定するため岸に行ったときに珍しい現象を見た。非常に明るいほうきのよう な火が速い速度で飛んで濃紺の地平線の彼方へ隠れた。物体は細長く幅よりも長さが長かった。火花が飛び炎のようだった。それで明るく照らされた。音は聞こ えなかった。両親はイコンランプが揺れたと話していた。また戦争に関係がある、とも……」

*1969年KSEの質問に回答

6- 5: 56° 04′ 101°55′ 535km 180°00′
Kovalskogo(ブラーツク市在住)が
イルクーツク気象台の台長ヴォズネンセンスキーに報告したもの。
「1908年6月30日(新暦)の午前7時頃アンガラ川の下流の方向から連続した衝撃音が聞こえた。農民の家(ロシアの伝統的な丸太造りの家)のいくつか では食器や窓ガラスが震動した。これまでのところ現象はこれだけである」

6- 6: 58° 08′ 94°06′ 535km 238°34′
Senenov Boris が1922年にクーリックのアンケートに答える。
目撃場所、Novonikolevsky Prisk 鉱山。
「1908年の初夏の朝、午前6時頃。東の方向から大砲の発射音のような轟音が聞こえ、その後弱いうなり音が10〜20秒間続き、それが2・3回あった。 最初の音は非常に大きく、多くの人々は家から飛び出した。その日の天気は雲がなく暑かった」

6- 7: 58° 37′ 110°11′ 527km 114°54′
I.F Okrugin 78歳、Korshunovo 村で目撃。
「隕石の落下を見た。それは夏のことで暖かく、気温は20度くらいあった。時刻は覚えていないが明るかった。その物体はレナ川に沿って北北西へ高いところ を飛んだ。Korshunovo の上でレナ川の上を飛んだのを正確に覚えている。隕石は山蔭に消えた。飛行高度は10°(それは手で示した)。火のような色で火花を飛ばし、細長く10m 位に感じた。音は聞かなかった。それは飛行機よりも速く飛んだ」

*1969年KSEの質問に回答

6- 8: 58° 10′ 94°18′ 523km 238°06′
Bazhenova Ustinya Mikhaylovna (1885年生まれ)がRybnoe 村で体験。
「23歳の夏の午前中だった。その火は快晴でそよ風が吹いていた。小屋の中のグラスや皿はチリンと鳴った。動物が倒れることはなかった」

*1969年KSEの質問に回答

6- 9: 58° 10′ 94°18′ 523km 238°06′
Patapov Nikander Rodionovich(1875年生まれ) がRybnoe 村で体験。
「事件は33歳のときで、朝早くだった。家は経済的に打撃を受けた。私は強い衝撃と轟音と、地面が揺れたのを覚えている。グラスやイコンランプは揺れた。 すべては長い時間続いた。牛は鳴き犬は吼えた、動物は倒れた」

*1969年KSEの質問に回答

6- 10: 58° 10′ 94°18′ 523km 238°06′
Ponomareva Tatiana Ivanovna が体験。
「15歳のときだった。干し草刈り期よりもずっと前のことで、快晴の朝だった。父と魚採りをしているとその場所が強く照らされた。細長いほうきに似た物体 がまっすぐに落ちた。物体は星のような輝きで、その後ろには跡が残らなかった。それは非常に速く飛んだ。轟音がきこえこだまのようだった。それは長く続か なかった。話によると、食器が落ち、窓のガラスは震えたという」

*1969年KSEの質問に回答

6- 11: 58° 14′ 109°29′ 518km 121°17′
I.P.Malysheva が1922年にクーリックのアンケートに答える。
目撃場所、Mironovo 村。
「1908年私は8歳だった。6月のすばらしい夏の季節に友人と戸外にいた。私が覚えているのは17日か18日(旧暦)の夕方7時か8時ではっきりとは覚 えていない。その日は静かで太陽は輝き、顕著な光る小さな雲があった。西から大きな雷鳴か大砲の発射音のような轟音が聞こえた。轟音は断続的に3〜4分間 続いた。火のような物体ははっきりとは見られなかったが、きわめて小さな雲のようだった。年上の人が日本人が攻めてきたのではないかと話していた」

6- 12: 56° 29′ 98°57′ 518km 200°26′
I.G.Rukosuev が1922年にクーリックのアンケートに答える。
目撃場所、Shitkino 村。
「1908年6月17日(旧暦)のおよそ11時頃、森のそばの野原で道路工事の仕事をしていた。およそ20人の労働者と数頭の馬がいた。非常に強い雷鳴の ような轟音があり、小さな震動があり何頭かの馬は倒れた。轟音は北の山脈の方向から聞こえ、20分間断続的に続いた。目立った雲はなく快晴だった。北の方 には注意するものはなかった。多くの労働者は地震に違いないと結論した。いくつか地震と異なる見解があったが今では覚えていない。同じ郡の Nevazhke 村でも同じ現象があったという。カンスク郡の他の場所でも同じであったが、雷鳴は10分以上続かなかったという」

6- 13: 58° 07′ 94°35′ 514km 236°27′
Skurikhin Mefody Grigorevich(1892年生まれ) がPashino 村で目撃。
「それは干し草刈の前の夏の朝で、私は16歳だった。星のように輝く細長い物体を見た。その輝きで強く照らされた。飛行機よりも5倍くらい速く飛んで物体 の飛んだ跡が残った。テーブルの下から地面の強い震動があった」

*1969年KSEの質問に回答

6- 14: 58° 07′ 94°35′ 514km 236°27′
Krysenko Fekla Sidorovna(1899年生まれ) がPashino 村で体験。
「それは1907年か1908年のことで、私が7歳か8歳のときのことだった。干し草刈りの時期で昼食前だった。静かな快晴で風がなかった。馬車が通りを 走りぬけたときだった、突然強い衝撃と震動で馬は倒れ肘をついた。人々は矢のような火が飛ぶのを見たと言っていた」

*1969年KSEの質問に回答

6- 15: 56° 45′ 105°51′ 513km 151°57′
A.Briukhanov (トムスク大学の学生)がUst−Kut 村で体験したことを、1908年7月24日にイルクーツク気 象台の台長ヴォズネンセンスキーのアンケートに答える。
「この地方の郊外では誰も地震を感じなかった。6月17日(旧暦)は衝撃音が聞こえた。多くの農民は大砲の発射音に似ていると思った。衝撃は火球(隕石) の落下場所であるKarolino 村(Kirensk市から300露里の距離)から発生したのは明白である。これまで最新の謎のひとつは最近ここにあいた穴で、それは塩味のある泉でいろい ろな化合物を含んでいる。それはその夏まではそういう穴はなかったと農民は言う。それについて私はイルクーツクの新聞「シベリア」に知らせた」

6- 16: 57° 28′ 107°45′ 505km 136°11′
Khoroshev Savva Kuzmich(1885年生まれ) がMakarovs 村で目撃。
「そのときは20歳を過ぎていた。畑で穀物を収穫していたら、巨大な火の玉が太陽を覆った。それは昼食の頃だった。それは非常に速い速度で、地面からはる か上を飛行機よりも速く南から北へ飛んだ。飛んだ跡に光跡が残ったか気付かなかった。爆発音は聞かなかったし、地震もなかった。女たちは、太陽が落ちたと 嘆いた」

*1967年KSEの質問に回答

6- 17: 57° 18′ 107°21′ 505km 139°38′
Potahova Lyumpeya Samoylovna(1882年生まれ) がKazimirovo 市で目撃。
「だいたい20歳頃のことで、すでに結婚していた。ほうきのような形の火が飛ぶのを見た。そのときはすでに夜で、明るくなるまでに5時間くらいあった。そ れは非常に速い速度で、ほとんど頭上を飛び、レナ川を横切った。物体の頭部から激しい火花が飛んだ。それは飛行機のような速度で飛んだが音はしなかった。 高度などは覚えていないが、明るさは太陽よりも暗かった。それは右から左下へ降下した」

*1969年KSEの質問に回答

6- 18: 58° 40′ 94°00′ 505km 244°16′
クラスノヤルスク駅の駅長 I.Auerbach が
イルクーツク気象台の台長ヴォズネンセンスキーに報告したもの。
「6月17日(旧暦)の地震について、そのとき私はStrelkaと南タイガの道にいた。朝の7時ころ6〜7露里離れたBlokhina駅から Tatarskoi駅の方向へ大きな衝撃音を聞いた。私はこの轟音は大量のダイナマイトの爆発のように思えた。そして落雷のような衝撃も伴なっていた。し かし空にはほんのわずかな雲しかなかった。最初の衝撃から15〜20分の間に弱い3回の衝撃があり、それからより強い衝撃が1回あった。翌18日、私はこ の珍しい現象について話を聞くためにBorovoy鉱山に行った。鉱山で働く人々は鉱山でダイナマイトか蒸気ボイラーが爆発したと考えた。彼等はさらに口 笛のような音を聞き何かが高速で飛んだようだと言った」

6- 19: 58° 14′ 94°41′ 501km 237°10′
Derevyannekh Egor Osipovich (1885年生まれ)がMotygino 村で体験。
「私は20歳だった。ペテローパヴロ祭(6月29日)前の朝にその出来事があった。銃の発射音に似た音があり北の方向から5分間聞こえた」

*1968年KSEの質問に回答

6- 20: 58° 14′ 94°41′ 501km 237°10′
Karnaukhov Philipp Mikharlovich (1884年生まれ)が体験。
「私はMotyginskom鉱山にいた。この出来事は6月のある日の午前9時までにあった。轟音があった(仕事中の大きな機械音の中で)それは爆発音の ように聞こえた。ダイナマイトが爆発したと思った。2・3回爆発があった。音は周囲から聞こえた。それは雷鳴に似ていなかった。轟音は15分間続いた、そ して激しい衝撃があり地面は震動した」

*1968年KSEの質問に回答

6- 21: 58° 14′ 94°41′ 501km 237°10′
Donomarev Nikolai Dmitriyevich(1894年生まれ) がMotyginoで目撃。
「結婚してない14歳で、春の暖かい日だった。五旬祭の後の朝早くだった。快晴で風がなかった。馬を野外へ放したところだった。星のように輝く点が地平線 の上にあるのを見た。先端からほうきのようにのびる光る尾があった。火のような光で少し赤味がかっていた。星のような輝きは太陽と同じくらいの明るさだっ た。物体のいろんな部分の色は同じだった。それに照らされた。飛行速度は飛行機と同じくらいだった。飛行した跡の光跡は残らなかった。煙や色のついた雲は この場所からは見なかった。数夜続いたという珍しい光学現象を見ることはなかった」

*1969年KSEの質問に回答

6- 22: 58° 05′ 94°56′ 501km 234°38′
Plotnikov Emelyan Terentevich(1893年生まれ) Zaytsevo 村で体験。
「15歳のときでドイツとの戦争の前のことだった。朝早く地面の強い震動があった。小屋のイコンランプが揺れたのを覚えている。大きな音が北から Zaytsevo に向かった。それは5分続いた。空気の震動は感じられなかった」

*1969年KSEの質問に回答

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.爆心地 か ら401〜500kmの目撃報告

数字は緯度、経度、爆心地からの距離、爆心地からの方向(北から時計回りの角度)です。

-1: 58°12′  109°02′ 500km 123°23′
Kiselev I.K 1894年生まれ。目撃地、Spoloshino村で目撃。
「若いときだった、光の束が飛んだのを見た。Piliude川(レナ川左岸の上流)の川沿いの隆起部分で見た。それは村の北側に落下した。光は月よりも大 きく、レナ川の下流から上流方向へ川と小さな角度で、山の上を飛んだ。衝撃音があった」

*1967年KSEの質問に回答

-2: 58°12′  109°02′ 500km 123°23′
Karelin A.N 1888年生まれ、Spoloshino村で目撃。Vitim市で質問を受ける。
「1908年の中ごろ、最初小さな音が聞こえた。それから大きな音がして地面が震動した。音は50回くらいあった。そのうち大きなものは10−15回あっ た。村では多くの人が激しく燃える炎のようなものを見たと言った。彼らは隣村にそれが落下したと考えて捜しにいったが何も見つからなかった」

*1967年KSEの質問に回答

7- 3: 57° 44′ 95°35′ 500km 228°22′
地質学者S.A.Khersonskogoからソ連学アカデミー隕石委員会にあてた1965年12月26日付けの手紙。
「私は1932年に学生の森林経営の実習に参加した。私はアンガラ川の地理的な地図作成の班の一員として仕事をした。いくつかの班はタイガの表面上のス ケッチをとり、植物などのサンプルを採集し記述することだった。私は2人の労務者と馬に乗ってChany川とBiriusy川の合流点に向かった。6昼 夜、焦げた森を通り抜けるのに必要だった。焦げた幹の木が広い帯状に破壊され無秩序に倒れていた。そしてTaseevoi川までの南東から北西方向へ数 kmこげた幹の帯が延び、そしてその岸を越えPriangarskoe川間の土地を占有していた。
土地の古老は証言した、「1908年未知の物体が飛んできて木を倒し、火がついた。タイガのトウヒ(エゾマツ)は谷や川沿い、盆地でわずかに生き残っ た」、と」

-4: 57°40′  108°00′ 498km 133°15′
Burkova Tatiana Vasilyevna 1896年生まれ。目撃、質問場所、Krivoshahkino村。
「草刈期のことだった。暑い日だったが、霧が出ていた。昼間、火のような大きな星が東から出現した。それは太陽よりも明るかったが肉眼で見ることができ た。丸い惑星のような形だった。東から地平線上を低く、飛行機よりも静かに速く飛んだ。明るい光だったが雷ではなかった、星が落下したと思った。

*1967年KSEの質問に回答

7- 5: 57° 40′ 108°00′ 498km 133°15′
Khokhlachev Nikolai Prokhorovich 1879年生まれ。
「Kriveshapkino村で飛行物体を見た。それに関して言えば球形の物体は炎に包まれた雷光のようだった。それは地平線から離れた高いところを飛 んだ。飛行の角度は地平線からおよそ25°で、南東から北西方向へ飛んだ。小さな異様な音が聞こえた」

*1968年KSEの質問に回答

7- 6: 57° 40′ 108°00′ 498km 133°15′
Monakov Ivan Semenovich 1895年生まれ。目撃、質問場所、Balashevo村。Kirenskよりレナ川83km上流。
「13歳の夏のことだった。6月中旬(旧暦)の干草刈りのずっと前だった。異様な音が聞こえてきた。働いているTeterinu S.V と Shestakovu I.Z(現在彼らは生存していない) に近づいて話を聞いた。彼らによると、地平線の上に「ほうき」が飛んで山陰に隠れたという。「火のようなほうき」が隠れてから爆発音が聞こえた。それは何 回も聞こえたが最初のものがいちばん大きかった」

*1968年KSEの質問に回答

7- 7: 58° 13′ 108°56′ 495km 123°44′
Lykhin A.Kh 1889年生まれ。目撃場所、Lykhino村。
「16歳のときで、夕方だった。草刈場に肥料を運んでいた。近くの村を出て最初の浅い谷に着いたとき、火のような物体が右手方向から山の上に飛んだ。形は 火の束のようだった。長さは飛行機のようで、幅は飛行機よりも広かった。それは山並の上を飛んだが高さは高くなかったが、低くもなかった。村の間の森林の 空き地を横切ったように見えたが、そこに落ちたのかもしれない」

*1968年KSEの質問に回答 

7- 8: 57° 39′ 107°52′ 494km 134°05′
Odnokurtsev Aleksey Andreevich 1893年生まれ。目撃場所、Kudrino村。Kirenskよりレナ川28km上流。
「1908年6月18日(旧暦)Kudrino村から10kmのところにGremyachem森があり、そこから材木を運んでいた。午前11時ころ食事を していた、空は明るく晴れていた。突然、空の太陽の方向から(南から北へ)球形の物体が飛んだ。それは飛行機よりも速い速度で地平線の上を飛んだ。何分間 も空中にはなかった。それは静かに移動した。球形の物体は太陽よりも明るかった。飛んだ物体は惑星のようだった。惑星状の前部からは霧のようなものが非常 に多く出ていた。後部部分−尾は非常に明るく透明感があった。尾の幅は端のほうで狭くなっていた。それが地平線に隠れて数分後に衝撃音が連続してあった。 最初のものがいちばん強く(それで馬が倒れた)、それからのは弱くなった。球形の物体が飛んだ跡は残らなかった」

*1968年KSEの質問に回答

7- 9: 58° 16′ 108°59′ 493km 123°01′
Nemytyshev Nikita Gavrilovich  1895年生まれ。目撃場所、Orlovs村、Petropavlovskaよりレナ川で1km下流。
Kirenskで質問を受ける。
「Petrushinskaの畑で仕事をしていた。最初雷鳴があり、白熱した球体が空を飛んだがすぐに見えなくなった。球体は黒いようにもみえた。それは 山の上の高い高度を飛んだ。その球体が飛んで見えなくなった後すぐに爆発があった。それは昼食の後だった」

*1967年KSEの質問に回答

7- 10: 58° 16′ 108°58′ 493km 123°06′
Yegorov.T.T  1893年生まれ。目撃場所、Petropavlovskoe村。
「10歳のときだった。それは干草刈の時期の夕方であった。火のような細長いパイプのような形の物体が空を飛んだ(方位角345°)。尾は太陽より暗く夕 方の太陽のようであった。それはジェット機よりわずかに太かった。長さは4m(ジェット機の長さを2mとして推定)。それは川の下流の方向へ行った。物体 の高度は6°(それは手で示した)。飛行の終わりまで物体に注意したが、異様な音はなかった。天候は薄曇だった。その物体は村を越えて、Zakharov 村に落下した」

*1967年KSEの質問に回答

7- 11: 57° 57′ 108°27′ 493km 128°30′
Farkov Gabriel Danilovich   1895年生まれ。
「1908年はLuzhki村に住んでいた。私は隕石が飛んだのはわからなく、人から聞いただけであるが、西の空が赤くなって煙が上がっていた。地面の震 動で窓ガラスの枠からガラスが落ちた」

*1962年KSEの質問に回答

7- 12: 57° 37′ 107°47′ 493km 134°48′
Yarygin Vitalius Ivanovich  1900年生まれ。目撃場所、Olontsovo村。Kirenskよりレナ川35km上流。
「ずっと昔のことだが、仕事をしていたことを覚えている。父と休耕地の土を掘り起こしていた。西の空になにか黒ずんだ裂け目のような物体があった。それは 黒ずんだ火のようで北または北西へ行った。雷鳴よりも強い断続音がして馬は逃げ隠れた。物体は少し火花を飛ばしたように見えた。物体の後ろから煙が尾のよ うにのびた」

*1967年KSEの質問に回答

7- 13: 57° 58′ 108°25′ 491km 128°30′
Kobelev Petr Alekseevich がAlexeevskで目撃。
「私は6歳だったが、この事件のことをよく覚えている。1908年6月のことで、母と2人の姉Mariya と Ustinia は家庭菜園にいて強い爆発音を聞いた。私たちがそれを聞いたときに、たての縞模様の白い円筒形の物体が空を飛んでいるのを見た。それは右から左へ旋回した ことを覚えている。それは5−6°の高度で、北から東へ動いた。その後物体はPodmyshkinoy村とPodkamennoi村の間にある山の後ろに 隠れた」

*1969年KSEの質問に回答

7- 14: 57° 48′ 108°07′ 491km 131°30′
Lyutikov Mikhail Lvovich  1893年生まれ。目撃場所、Kirensk市。
「隕石の落下のときはこの家からそう離れていないところに住んでいた。男の子たちが川で泳いでいた。突然大きな爆発音が聞こえた。山が終わり森林が始まる ところに小さなピンク色の雲があるのが見えた。それから雲の塊が現れた。少年たちは雷雨と思って走って逃げた。小さなピンク色の雲と、雲の塊はしばらくし てから消えた。爆発音は3回あった。より強い最初の大きな雷鳴のような音は3−4分続いた。地面は揺れなかった(はっきり覚えていない)。雲の方位角は 346−348°、ピンク色の雲の高度は3−4°、雲の塊は6°の高度であった」

*1969年KSEの質問に回答

7- 15: 57° 48′ 108°07′ 491km 131°30′
Kirensk気象台の責任者G.K.Kuleshが
イルクーツク気象台の台長ヴォズネンセンスキーにあてた1908年6月 23日付(旧暦)の書簡。
「6月17日、Kirenskの北西方向に見られた現象である。午前7時15分から8時の間観察された。私にとってその観測は必要ではなかったが、気象台 の観測機器が記録したので仕事を続けた。鈍い音が聞こえたがKirengo川で軍隊が一斉射撃したのだと思った。仕事を終えて自記記録計の記録用紙を見て 私は驚いた。午前7時の列のそばに特徴のある値が記録されていた。私は驚いたので仕事を続けその場所にとどまった。何が起こったのか(目撃者の証言を伝え る)。
午前7時15分、北西の空に直径4サージェン(4×2.134m)の柱のような槍の形の火が現れた。柱のような火が消えて5回強い衝撃音が断続的にあっ た。大砲とははっきりと違う別の音だった。その後柱が消えた場所に厚い雲ができたようだった。15分間を通して同じ衝撃音があった。次の15分もそれを繰 り返した。(川の)渡し守、兵士や一般人はその衝撃音を14回数えた。柱のような火は多くの人に観察されたが、衝撃音はさらに多くの人に聞かれた。都市に もっとも近い村に住む農民は都市に来てたずねた:「あれは何であったか」、「戦争の前ぶれではないのか」と。Karelino村から都市に来た農民による と、KirenskaからTunguska川で20露里上流では土地が強く震動しそれで家中のガラスが壊れてしまった。
別の男の情報によると、Karelino村から7露里の山の中で湖ができた。農民の話によると、沼が多い平らな場所があり、夏と冬は湿地から蒸気が立ち 上った。この湿地は湖になった、というがこの話の正しさは確認できない。現在この現象はわが国で最もすばらしい物語と仮説の話を多く生んだ。
正確に言えることは、非常に大きな流星が落下した。それはまったくの快晴の天気で、直径4サージェンの柱のように見えたということだ。雲ができたのははっ きりしている。それは灰色だったがその後黒くなった。聞こえた衝撃音は3−14回、地震があった。自記気圧計のグラフの特徴はその証拠となる。
その他、中学校の近所に住むYashinは戸外にいたが、塀に立てかけてあった厚板が倒れた。戸外はまったく静かであった。多分強い空気振動により倒れた のであろう。
Kirenskaの住民の話では、そのときトランクを取りに行って開けようとしていた、そのときトランクの側面がまるで強い風に当たったように揺れた、と いう」

7- 16: 56° 43′ 103°52′ 477km 165°23′
Ilimsk気象台のN.N.Poliuzhinskyは
イルクーツク気象台の台長ヴォズネンセンスキーにあてた1908年6月 21日(旧暦)付の手紙で次のように伝えた。
「1908年6月17日午前8時30分、大砲の発射音のような、強い雷雨に似た大きな音が聞こえた。別の人によるとそれは流星(石質隕石)の落下によるも のだという」その後Poliuzhinskyはさらに詳しい内容の手紙を送った。
「6月17日火曜日、およそ午前8時ころ、雲量は10%。南南東の空からリボルバー銃の射撃音に似た雷鳴のような音が頻繁に聞こえてきた。その雷鳴に似た 音はますます強くなり、火薬の爆発か大砲の射撃音のようになった。Ilimskでは強い断続音が接近して恐ろしかった。そして小さな地震があった(イコン と灯明皿は震動で前に動いた。静かに座っていた人は地震に気づいた)。その後断続的に空中で雷鳴に似たうなり音は北北西の方向へ移動しおよそ20分間続い たが稲妻を見ることはなかった。雷鳴に似た音がしている間に Ilimskの住民の一人は IlimskからIlimsk川4露里上流で「火のような尾を持つ空飛ぶ星」を見て川の中に落ちた。そしてその尾は空中で消えた、という。
Yarskaya村(IlimskからIlimsk川の60露里下流)の3人の女性は火のような球が空を飛ぶのを見た、それが消えたところは判らない。女 性たちは怖くなって走って家に戻ったからである。私が最初に手紙で伝えた雷の時刻は間違いだった」

7- 17: 58° 15′ 108°27′ 471km 125°35′
Zharinov Nikolai Ilyich  1898年生まれ。目撃場所、Poldvoloshino。
「それはおよそ、今の時期より2週間くらい先だった。天気は快晴だった。肥料を運んでいると、突然森で異様な音がした。煙が上がり、それから爆発があっ た。落雷ではなく爆発だった。現地時刻で15−16時だった。その前に北西のほうへ光の束が飛んだのを覚えている。10歳のときのことだったが、雷鳴のよ うな音は天気が快晴だったので特によく覚えている。森は不思議な衝撃で騒音をたてた。もうひとつ衝撃があり、私はおよそ4つの衝撃を覚えている」

*1965年KSEの質問に回答

7- 18: 58° 15′ 108°27′ 471km 125°35′
Troynin Mikhail Pavlovich  1902年生まれ。Podvoloshinoに住んでいた。
自身は覚えていないが1908年の出来事を健康な老人M.P.Troinin から偶然に話を聞いた。「私は玄関から外に出ると、父母もそこに立っていた。光の束が空を飛んでいたのを注意深く見ることができた。大きさははっきり覚え ていないが、火花を飛ばしていた。煙は出ていなかった。3回の爆発があった、最初の爆発音がいちばん強かった。爆発音は物体の消失後15分以内に聞こえ た。快晴の日に太陽のような明るさの物体と突然の大きな衝撃音に驚いた。物体の飛行が見られたのは5分以内だった。物体の飛行高度は高かったが、雲の下を 飛んだ。その雲の高度は低くなかった。物体は山の方向へ落下した(Troyninは消失した方向を示した。それは方位角330°だった)。窓はガタガタ 鳴ったが無事だった」 

*1969年KSEの質問に回答    

7- 19: 57° 49′ 107°26′ 463km 134°59′
G.K.Kuleshは
イ ルクーツク気象台の台長ヴォズネンセンスキーのアンケートに次のように答えた。
「地震についての気象台の報告は多くあるが、レナ川に沿う多くの住民が自身に関して注意が回らなかった。しかし珍しい強い衝撃については驚いて注目した。 現在明らかにされたのは衝撃音が聞かれた地域はお互いに遠く離れていてその情報は完全に信用できる。
Vitimからレナ川上流のUst−KutまでBokaibo川の方向で衝撃があった。火のような柱は多くの人が見た。それは槍の形に似ていたという。ま た煙または灰色の雲で暗くなったことを多くの人が注目した。私の家のガラスが衝撃で震動したかどうか判らない。最も強い衝撃は最後のものだった、空気は強 く振動した。Tunguskaの近くのKorelinoy村に出来たという湖の話は偽りということがわかった。この村の住民は衝撃に驚きこの世の終わりで はないかと考えた。
私は地面の震動があったと結論する。私は自記気圧計の記録紙に記録された値を注目した。その現象が起きたとき部屋の中には誰も入らなかったし、私のいた場 所では機器(装備類)は動かされることはなかった。私も衝撃音を聞いた。しかし北西向きの窓は閉められており、南側だけが開けられていた。私は衝撃音は軍 による銃の一斉射撃音だと思った」

7- 20: 57° 54′ 107°40′ 465km 132°57′
Karelin Aleksandr Ivanovich  1895年生まれ。目撃場所、Nizhnee Karelino村。
「ドイツとの戦争の前の、15歳のときだった。夏のことで天気は快晴で無風だった。肥料を運んでいた。昼食までまだ時間があった。空に火の柱のようなもの があり右から左へ落下してゆくのが見えた。遠くからなので頭と尾を区別することは困難だったが、光の束のように飛んだ。尾を含めた長さは約10°。飛行の 間は音はなかったが、それが消えたときに爆発があった。雷鳴または爆発のような耳をつんざくような3回の強い3回の衝撃音があった。地面は震動しなかっ た。物体の速度は40°の角度を5秒間の速さだった」

*1969年KSEの質問に回答

7- 21: 56° 53′ 101°58′ 445km 179°35′
Zarubina Anna Maximovna 1888年生まれ。Pahino村の住民。Banschikovo村で質問を受ける。「19歳のときだった。山のほうから轟音がした。家の窓は叩かれたよ うに震えた。轟音は西のほうから聞こえ1分間続いた。それは夏の草刈期前の朝のことだった」

 *1968年KSEの質問に回答

7- 22: 56° 53′ 101°58′ 445km 179°35′
Popov Ivan Innokentevich 1895年生まれ。目撃場所、Pashino村。
「震動があり、音がして窓が吹っ飛んだ」

*1969年KSEの質問に回答

7- 23: 56° 53′ 101°58′ 445km 179°35′
Kolpakva Praskovia Nikiforovna 1893年生まれ。目撃場所、Pashino村。
「窓が震動しそれから、長い尾を引いて星のように速く飛ぶものを見た。それは先端が太くそれからだんだん細くなった。幅は太陽くらい。色は黄色がかって太 陽よりも暗い。(観察点高度20°方位角180°、消滅点高度0°方位角82°)」

*1969年KSEの質問に回答

7- 24: 56° 56′ 101°50′ 439km 180°18′
Shamanskaya Ulita Alexandrovna 1898年生まれ。目撃場所Nizhnyaya Shamanka村。
「12歳のときだった。ドカンードカンードカンという音がした。川の上に風が吹き波が立った。ドーンという音は20分間続いた。日本との戦争の後のこと だった。母が走ってきて「私のところに来なさい」と言った。うわさでは、ある家は倒れ、またある家は震動したという。連続した音は朝のお茶の時刻の前で、 夏の前の時期だった。地震は覚えていない。これまで誰にも質問されたことはない」

*1968年KSEの質問に回答

7- 25: 56° 59′ 101°21′ 435km 184°20′
Usova Anna Demidovna 1884年生まれ。Sedanovo村で目撃。
「若いときに、大きな音がしてドアが開いた。何があったのか私は見なかった。日食のことはかなりよく記憶しているがそれはその後のことである」

*1968年KSEの質問に回答

7- 26: 58° 43′ 108°22′ 434km 120°51′
Zyryanov Georgiy Osipovich  1891年生まれ。
「1908年はSosnin に住んでいた。16か17歳だった。肥料を運んでいるときで、夏時間で11時ころだった。太陽よりも明るい物体が、後ろに丸太のような光線の束を引きなが ら火花を飛ばして空を飛んだ。それから30分間に3回の爆発音があった。最初の爆発音は強く馬は肘をついた。あとの2回は遠い雷のようだった。なにか燃え ているのに気づいた人がいたようだった。丸太の長さは7mくらいで、それは北西方向(もっと北かもしれない)に行った。丸太の影には注意しなかった。飛行 中の異様な音には気づかなかった。およそ9−10秒間見えていた。飛行高度は(飛行機と比較して)約2000mで、すべての雲より低いところを飛んだ。そ の物体は地面とほぼ平行にほとんど降下せずに飛んだ。飛行の方位角は280°」

*1969年KSEの質問に回答       

7- 27: 57° 08′ 103°22′ 425km 167°57′
Romanova Anna Afanasevna 1887年生まれ。目撃場所、Romanovo村。
「30歳のころで、すでに結婚していた。6月の上旬か7月だった。快晴で太陽が照っていた。私はオークを採りに行っていた。午前11時、大きな「丸太」が 南東から北東へ飛んだ。すべての薪や森林は燃えたらしい。目で見た限りでは星のように速く飛んだ。音はブーン、ブーンというようだった。農民がやって来 て、ほかの惑星のかけらが落ちたのだといった。「丸太」はNovohole の近くに落ちたのではないかと思われたが、走りまわって捜したが何も見つからなかった。太陽の高度は30−40°で、方位角は130°だった」

*1969年KSEの質問に回答

7- 28: 57° 08′ 103°20′ 425km 168°13′
Butanov Fedor Pavlovich 1891年生まれ。目撃場所、Makarovo村。
「1908年か1909年のことで、少女だった。歳は17か18歳だった。夏(7月か8月)の午前7時ころ、Makarovoから10kmのところで農作 業をしていた。きれいな太陽が出ている朝だった。太陽が昇ったばかりだった。頭の上を斜めに飛ぶ球形で赤い尾を引いた物体を見た。物体はひとつで、火花は 飛ばなかったが筋を引いていた。光度は長さ方向に変化していた。物体は飛んでいる間形に変化はなかった。煙のような跡はすぐには消えなかった。太陽よりも 明るかったが見ることができた。熱は感じられず、一帯は明るくなった。速度は落ちる星のようであった。音はあった。震動があり(グラスがチリンチリンと 鳴った)。光跡がいつまで続いたか判らない。周囲の人は「ヘビのような形の火」といっていた」

*1969年KSEの質問に回答

7- 29: 57° 11′ 103°18′ 419km 168°21′
Peretolchina Vera Stepanovna 1898年生まれ。目撃場所、Nizhne-Ilimskoe。
「夏のことで、6月の午前9−10時頃、母と一緒にスグリを採りに行った。丸太のようであり、ほうきのようであり、火のようなそれは右から左へ飛んだ。高 度は10°方位角は35°。何がなんだかわからないので恐ろしかった。四方へ火花を飛ばし、すべては燃え尽きたようだった。煙のような跡は顕著でなかっ た。目を保護できたし、それを見ることもできた。飛行機よりも速く飛び、稲妻のようだった。異様な音がした、それは一方向から聞こえた。地面が大きく震動 し、おびえて家に帰った」

*1969年KSEの質問に回答

7- 30: 57° 13′ 103°14′ 415km 168°48′
Slobadchikov Ivan Ivanovich 1900年生まれ。目撃場所、Bolishay Denevny村。
「8歳の夏だった、太陽はすでに沈んでいた。暖かい快晴の日だった。家の庭で火花を飛ばしながら飛ぶ丸太のようなものを見た。物体はほうきにも似ていた。 火花を飛ばした炎のような尾があった。核は区別できなく一体であり飛行中の形状は同じだった。煙のようなものはなかった。太陽よりも明るかったが目を保護 しなくても見ることができた。はじめ物体は家のそばに見えた。その方位角は165°高度は25−30°。方位角300°の山の間の平原のうえで消えた。弾 道はほぼ直線だった。右に向かって物体は降下した。熱は感じなかったが、周囲は明るく照らされた。物体の表面の色は全体で同じ色で電灯のようだった。明る い物体の消失後、火柱は立たなかった。星が落ちるときの速度で飛んだ。音は聞こえなかった。地震も地震のような現象もどちらもなかった」

*1969年KSEの質問に回答

7- 31: 57° 13′ 103°10′ 414km 169°21′
Stupin Ivan Kalinovich 1901年生まれ。目撃場所、Stupino。
「8−10歳の子供のときだった。春か夏(5月)のことで、朝8−9時だった。家にお茶を飲みに行こうとしていた。太陽が上り暖かい晴れた日だった。空の あちこちから変わった音が聞こえ、火のような筋が飛び去った。物体は金属を加熱着色したような色だった。物体が消えると音も消えた。物体の大きさは判らな かったが、火のような筋を引いていたのが見えた。筋の長さは約150°、最大高度は30°で、まっすぐに飛び地平線のうえで消えた。右から左に飛んだ。そ れは最初太陽の上だったがその後下になった。最初太陽の右でそれから左になった。それを見て大変恐ろしくなった。煙のような跡が残った。太陽より明るかっ たかもしれないが、熱は感じられなかった。物体の飛んだ跡は消え去らなかった。速度は流星のようだった。音は聞き取りにくい低い音だった。衝撃はなかっ た。音は物体の動きに伴い、南西から北東へ移動した。音は物体が現れる前から聞こえた。地面は震動したが、食器やほかのものが動いたか気付かなかった。空 気の振動はなかった。落下した場所に煙のような雲があるのに気付いた。その昼間と夜は普通だった。住民は「神の力」について話し合って、若い者はおびえて いた。ツングースカに落ちたと聞いた。長くそれについて記憶していて、伝説として残っている」

*1969年KSEの質問に回答

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 8.爆心地 から301〜400kmの目撃報告

数 字は緯度、経度、爆心地からの距離、爆心地からの方向(北から時計回りの角度)です。

8-1: 58° 21′ 96°58′ 395km 226°39′
Rukosuev Gavrila Nikolaevich 1875年生まれ。目撃と質問場所、Pinchuga村。
「40歳の頃だった。畑にいた昼の12時頃地震があった。木片が飛び散った。我々は誰かが射撃しているのだと思った。20分続いた。石はKatangaの 上を飛んだ」

*1969 年KSEの質問に回答

8-2: 60° 00′ 96°00′ 390km 258°25′
エニセイスク市の金山の所有者のA.A.Nerobelovが電話で別の金山の所有者A.A.Vlasovuに電話で伝える。
N.「大変だ、Avenir Alexandrovich。この国に大変なことが起こっているようだ?いま山頂が完全に吹き飛ばさ
れたようだ。大変だ、Avenir Alexandrovich」
V.「あんたは昨夜大酒を飲んで充分眠っていないんだろう。どうして私が「金の山」に休みを取らせなければならないんだ。現在午前7時、私はたった今起き たところで、ほかの人はまだ仕事を始めていなくお茶を飲んでいる。今日は山を完全に爆破する。昨日も、2・3日前も浅くしか破裂していない。このときはタ イガのどこでも強い爆発音が聞こえる。爆発の衝撃の轟音は広がってゆくと大きな崖崩れに似た音になる、そして徐々に収まってゆく。あんたは予期しない事 だったので驚いたのでしょう」
N.「何を言うのか、ここの健康な隣人も驚いている。おい、友よあんたの予想は間違っている。山の発破があったことは判っている。あんたと私のどちらかが 夢を見ているというのか。なんてひどいんだ、兄弟、夕焼けの光のようじゃないか。私のいる食堂のガラス越しにそれが見える。あんたにはそれでも警告する、 吹き飛ばされたのは私の鉱山の金を探すためでも、あんたの山の鉱脈を発破したのでも私の場所から公平に見てどちらでもない」
Vlasivuは「ご親切に」とお愛想を言った。彼らは会話をやめて受話器を置いた。
A.A.Nerobelov は異様な音にひきつけられた。そして鉱山で働いている人々は大きな音を聞いた。それは大いに動揺した理解できない現象だった。彼らが聞いた強い爆発音と轟 音は徐々に弱まっていった。少しの間地面は震動し窓ガラスはガタガタ音がした。変わった色の煙が東北東のタイガの上にはっきりと残っていた。多くの人が煙 の色は白と明るい茶色の混合と見ていた。すべての人は上空で鳴った轟音についてよい解釈ができない現象だった。しかし、ほとんどの人が砲兵の一斉射撃か日 本の大砲の連続射撃と結びつけた。伝えられるところでは日本人は世界を侵害した。そしてLenskimとEniseiskの貴金属鉱山を奪取したという。

*1926 年 I.M.Suslovym が記録 

8-3: 58° 31′ 96°51′ 386km 229°15′
Kulakov Pavel Evdokimovich 、およそ90歳。Irkineevoで目撃し質問を受ける。
「17歳のときだった。白樺を切るため森で働いていた。夏の快晴の空だった。衝撃があり、私は恐れた。轟音は約30分続いた。轟音はすべて同じだった。こ れは大砲の発射音のように聞こえた。村では家の窓が振動した。音は一方向から聞こえた(方位角75°)」

*1969 年KSEの質問に回答

8-4: 58° 24′ 97°06′ 386km 229°21′
Tausneva Agrafena Ivanvna 1891年生まれ。目撃場所、Yanki村。質問場所、Mocygino町。
「17歳のときだった。戦争前のことで、昼食の時刻に近かった。天気は快晴で無風だった。ジャガイモ堀をしていた。突然、川の氷が割れるような大きな音が した。地面が震動し、窓も振動した」

*1969 年KSEの質問に回答

8-5: 57° 38′ 99°31′ 386km 201°31′
Kashkarev Averian Ivanovich 1890年生まれ。目撃場所、Chervyanka村。
「午前9時ころに Zashel のところへ馬で出かけた。突然、そしてはっきりと雷鳴が鳴った。我々は窓際にいた。東に面した窓が30秒間振動した。人々は何か火のようなものが東から飛 び去ったと話した。1929年クーリックの探検隊はCheryankaを通過した。我々のところでソリ15−20は止まった」

*1969 年KSEの質問に回答

8-6: 57° 31′ 102°19′ 375km 176°10′
Banshchikov Ivan Grigorevich 1890年生まれ。目撃と0質問場所、Banschnkovo 村。
「10歳か11歳のときだった。畑を耕していた。正午に近い時刻に、銃が弾丸を発射したような音がした。その後時間をおいて2番目の音がして、それから3 番目の音があった。農民の家はひどく揺れ雷が落ちたようだったが、雷ではなかった。1番目の音と2番目、3番目の間は時間があった。アンガラ川下流の方向 からだった」

*1968 年KSEの質問に回答

8-7: 57° 31′ 102°19′ 375km 176°10′
Stupina Anna Spiridonovna 1893年生まれ。目撃場所、Banshchikovo村。
「11歳の頃で大人になる前だった。朝、畑を耕していたら連続して打つような音がした。たたくような音がして、明るかったのが夜のようになり、それからま た昼に戻った。はじめたたくような音だったが、それからうなるような音になった。音は南から聞こえたが、雲はなかった」

*1968 年KSEの質問に回答

8-8: 57° 31′ 102°19′ 375km 176°10′
Ryabtseva E.K 1895年生まれ。目撃場所、Banshchikovo 村。
「私は畑を耕していた。突然四角の赤く燃えるものによって空の門が開けられた。最初それは小さな四角形だったが急速に多くの家よりも大きくなり、我々の2 階建ての学校よりも大きくなった。30分でほぼ四角形は燃え尽きた。(私はその間耕していた、馬は炎と反対方向へ逃げた)煙はあったが、私には熱は感じら れなかった。雷鳴のような、射撃のような音はほぼ正午頃に始まった。雷鳴は地面を揺らしたため窓は震えた。日本との戦争が再開されたと誰もが思った。音は 大砲の射撃音だと思った。
その夜は夜光はなく、普通の夜だった。それは私は確実に覚えている」
Ryabtseva は山にいたらしいが、湿地にいたのかもしれない。しかし考えるとエベンキ人は話すことが得意ではない。
Sam Ilya Potapocich(Liuchetkan) は非常に迷信深い男だった。Ryabtseva は彼をよく知っていた。彼はRyabtseva に言った。彼の妻は空気の衝撃で放り投げられ、しばらくうめき声をあげていた。伝えられるところでは彼女は耳が聞こえなくなったらしい。

*1968 年KSEの質問に回答

8-9: 58° 22′ 97°29′ 374km 223°26′
Panov Mikhail Yakovlevich 1891年生まれ。
「Boguchay 村で生まれた。アンガラ川にそそぐ小川の上流15kmのところに製粉所を建てていた。早朝に起きて小川のもっと上流にカワヒメマスを捕るために行った。カ ワヒメマスを2匹捕ったとき、私は雷鳴を聞いた、周囲の地面は震動し私はよろめいたが倒れることはなかった。私はおびえて駆け戻った。それは再び起こっ た。3回めもあった。製粉所に駆け戻ってくると三脚台に乗っていた人は倒れていた。皆が太陽のような炎が北東に飛んでいったのを見た。炎は小銃を発射した ような感じだったという。IL−14が飛ぶような高さを飛んでいた。それは落下しなかった。それが引く線はなだらかだった(最初の高度28°最後は 10°、これらの間の方位角は40°)。それは稲妻のように速かった。農民たちは見て、私にも言った−見ろと。見た−それは最後の衝撃だった」

*1968 年KSEの質問に回答

8-10: 57° 36′ 102°44′ 368km 172°13′
Petukhoy Innokenty Andreevich 1896年生まれ。
「1908年は Zyatiya 村に住んでいた。10−15歳の子供の頃だった。夏の6月のよい天気の朝だった。外で遊んでいた。大人たちは家でテーブルを囲んでいた。南の方に物体が見 え、直線的に飛び北で消えた。下向きの角度で飛び山に隠れて見えなくなった。高度10°で右から左へ地平線低く飛んで行った。丸い火のように見えたが、核 と尾は識別でき、尾から火花が飛んだ。物体はひとつで、形の変化はなかった。煙のような跡は残らなかった。太陽よりも明るかったが見ることはできた。熱は 感じなかった。一帯は照らされた。物体の色は赤で、金属が非常に高温になったような感じだった。消える前に明るくなるような現象はなかった。速さは流星の ようだった。落ちたときの音はなかった。地震があり揺れた。窓ガラスは大きな音を立てた。残像現象は見なかった。皆で火の玉が飛んだと話し合った。それが 落下した湿地は多くの木が倒されたと聞いたが、すぐに忘れ去られた」

*1969 年KSEの質問に回答

8-11: 58° 16′ 105°53′ 367km 140°38′
Gordeev Andrey Fedorovich 1897年生まれ。目撃と質問場所、Tokma村。
「それは軍を退役する前の17-18歳前で、革命前のことだった。夏の草刈期の最中で昼食前の12時頃だった。快晴で無風の天気だった。戸外で干草を集め ていた。衝撃に注意をひきつけられた。球形の異様な物体を見た。火のようであり、煙のようでもあり、尾はなかった。目を保護しなくても見ることができた。 物体の色はほぼ一様だった。観測点の方位角30°高度25°、消滅点方位角110度高度25°。弾道は地平線に平行で、弾道のほとんどの範囲で太陽の左側 だった。物体からの熱感覚はなかった。物体による影は観察しなかった。はっきりした爆発は判らなかったが、地平線の上に柱状のものが立った。飛行時間は 10秒間で、飛行機のような流星のような速さだった。爆発のような音は銃の射撃音や雷雨の雷鳴よりも強かった。物体が出現するまでに2回衝撃があり、3回 目の後出現した。最後の衝撃がもっとも強かった。音源と物体の移動に関係ないようだった。音響現象は1-2分で終わった。地面は震えたが家にいた人は気付 かなかった。物体が飛んだあとの、明るい夜については覚えていない。人々は最初はおびえていた。物体の落下の後年、党の2人の技師 Kokaulin と Kulyaev に誰か大災害の年の後に落下場所に行かなかったか、徹底的に質問された。ツングースカ隕石については何も読んだことはなく、何も知らない」

*1966 年KSEの質問に回答

8-12: 59° 53′ 108°08′ 360km 105°17′
Verkhoturov Ivan Vasilevich 1901年生まれ。
「子供だったが、そのことは覚えている。14-15歳の頃で、6月でも8月でもない、快晴の午後の3-4時ころだった。戸外で父と何かを作っていた。父が 気がついたときにはそれは右の南から進んできた。それは収穫した穀物の束のようだった。先端は丸くもう一方はほうきのようだった。見ても目は痛くならな かった。それは森に隠れ、隠れるとすぐに小さい爆発があった。爆発音は2-3秒間あり射撃音のようだった。それから大きな爆発があり、それは遠くの雷鳴の ようだった。隕石は方位角225°高度40°で目撃し、物体は降下し方位角270°で森に隠れた。速さは飛行機(ジェット機)より速かったが、ゆっくりと した流星のようだった。煙は判らなかった。

爆 発の回数は多かった。

*1965 年KSEの質問に回答

8-13: 60° 00′ 108°11′ 358km 103°11′
Verkhoturov Pavel Egorovich 1892年生まれ。
「1908年は Fedorovo 村に住んでいた。何が空を飛んだのか判らなかった。そして地平線の向こうから急に炎が見えた。それからその方向から煙が上がった(方位角285°はコンパ スで測定した)。それから地面が震え揺れた。そして2回強い衝撃音があった。それから少し弱い3番目の衝撃音があった」

*1965 年KSEの質問に回答

8-14: 58° 23′ 98°02′ 352km 219°31′
Kolpakov Petr Afanasievich 1890年生まれ。目撃と質問場所、Zaimka 村。
「独身のときで16−17歳のときだった。父と弟3人で森に向かっていた。森の近くにやって来たとき音が2回した。森の木は少し撓んだが倒れることはな かった。大きな、どすんという音が1回して、2・3回強い衝撃があった。その後静かになり、コツコツという物がぶつかり合うような音が長い時間した。ノッ クのような音は小銃の射撃音にも似ていた。稲妻のような火が瞬きする間に飛び去った。ぐらぐらと地面が揺れた。うわさでは湖ができ、何が落ちてきたのか捜 すということだった(火の方位角210°降下角30°)」

*1969 年KSEの質問に回答

8-15: 60° 02′ 108°00′ 347km 103°08′
Permyakov Stopan Dormidontovich 1891年生まれ。目撃場所 Preobrazhenka 村。
「朝、肥料を運んでいた。天気は快晴で静かだった。川岸に着いたところで火の束のようなものが飛んでいるのが見えた。火のような束は南東から飛んできて、 Preobrazhenka村を通って北西のAmbarchiku(方位角285°)のほうへ行った。Preobrazhenka村を飛び過ぎてゆくとき にブーンという音が聞こえた。それは衝撃音ではなく地鳴りのようであった。火の束のようなものが地平線に落下して火が高く燃え上がった。それは暫くの間続 いた。それは長い時間はっきりと見えていた。落下からおよそ3-4分後に衝撃音が伝わってきた。最初の2つは弱かったが、3番目は非常に大きかった」

*1962 年V.G.Konenkin の質問に回答

8-16: 60° 02′ 108°00′ 347km 103°08′
Konenkin Innokenty Dmitrievich 1893年生まれ。目撃場所 Preobrazhenka 村。
「私はよく覚えている、1908年夏、Preobrazhenka 村の上空を通って火のような玉が飛び、地平線の向こうに消えた。その日は非常に速く飛び去った。もしもっと時間があったなら私はそれを識別できただろう。 大きさは干草の山のように思った。全体が灼熱していて後ろから火花を飛ばしていた。火のような玉が地平線に隠れて2-3分後に火球が落ちた方向から大砲の 発射音のような爆発音が聞こえてきた。年をとった兵士は「戦争だ」と言った。火の玉が飛んだとき轟音はなくガラスも震えなかったが、爆発で窓ガラスは震え た。そのとき Preobrazhenka に住んでいた流刑囚のPhipilenko は天文学者と呼ばれていたが、彼はそれは惑星が落下したものだと言った」

*1962 年V.G.Konenkin の質問に回答

8-17: 60° 02′ 108°00′ 347km 103°08′
Volozhin Innkenty Mitrofanovich 1892年生まれ。目撃と質問場所 Preobrazhenka 村。
「6月のことだった。私は肥料を運んでいた。隕石が地平線に落ちるのを見た。その落ちたところから柱のような炎が吹き上がった。その高さは木の高さの2倍 より低かった。それから炎から煙のようなものが見えた。そのおよそ5-6分後大きな轟音が聞こえて馬はひざをついた。地面は震動し、窓ガラスはガチャガ チャ音をたてた。食器棚の食器もガチャガチャ音をたてた」

*1966 年KSEの質問に回答

8-18: 60° 02′ 108°00′ 347km 103°08′
Zyryanov Nikolai Konstantinovich 1895年生まれ。目撃と質問場所 Preobrazhenka 村。
「6月のおよそ午前10時、兄弟と肥料を運んでいた。そして我々は火のような束が飛ぶのを見た。それは頭部の長さの8倍の長さの火のような尾があった。尾 のはじめは太いがそれから細くなり円錐状になっていた。飛んだ方向はPreobrazhenkaの少し南西を、南東から北西へ行ったと思う。我々にはツン ドラの山脈のほうに落下したと思った(方位角300°)。火のような束が落下した後、10-15分後に大砲の発射音のような爆発音が聞こえた。最初小さな 音だったが、それから非常に大きな音になった」

*1966 年KSEの質問に回答

8-19: 60° 05′ 108°00′ 346km 102°16′
Safiannikov Semen Egorovich 1891年生まれ。
「1908年はMaga 村に住んでいた。私は隕石が地平線に落下するのを見た。私はそれがMaga 村の西に落下したと思う。私が覚えている隕石の形は細長く、先端が鋭く、そして次第に太くなった。隕石が地平線に隠れたとき私は見なかったが、炎がかなり よく見えたという。そしてその場所から煙が立ち昇った、それはほぼ10分間続いた」

*1962 年V.G.Konenkin の質問に回答

8-20: 58° 51′ 97°15′ 344km 230°54′
Skurizin Egor Titovich 1889年生まれ。目撃場所、Bedoba 村。
「畑を耕して種蒔きの後のことだった。午前10時頃。村から5kmのところに父と交代するために行くところだった。突然、トクートクートクという音が聞こ えた。機関銃の射撃音のようだった。私は興奮して時間が速く過ぎた。大きな衝撃で馬はひざをついた、異様な音は東から来た。それはまっすぐに飛んだ(方位 角102°、高度29°)。火のように赤く、大きさは太陽のようだった。飛んだ跡が5分間くらい残っていた。その色は変わらなかった」

*1968 年KSEの質問に回答

8-21: 58° 23′ 98°23′ 339km 216°29′
Kollakov Prokkor Ivanovich 1889年生まれ。目撃と質問場所、Goljtyavino 村。
「Elani の家(村から8km)に行っていた。20歳の頃で独身だった。雲は小さく、空はきれいだった。正午近く草を買った場所付近から冷たい風とともにドスンとい う音がした。何かが崩壊するような感じだった。それは最初ゴツゴツという何かたたくような音がして、それから轟音がした。怖かったが家の中では何も起こら なかった。しばらく打つような音が続いた」

*1969 年KSEの質問に回答

8-22: 57° 54′ 100°40′ 339km 192°21′
Karamysheva Praskovjya Vasiljevna 1888年生まれ。目撃場所、Kostino 村。
「14−15歳の頃だった。轟音がして地上のものはすべて音を立てて倒れた。家に立てかけておいた丸太は吹き倒された。窓は外れて落ちた。石が飛んだとい う話だったが、しかし誰も見なかった。馬はひざをついた。最初ゴツゴツというようなたたく音がして、それから強い雷鳴のような音になった」

*1969 年KSEの質問に回答

8-23: 57° 53′ 102°42′ 337km 171°53′
Belov Mikhail Ivanovich Kezhona の住民。目撃場所Karapchansko 村。
L.A.Kulik にあてた1937年6月28日付けの書簡。
「私はそのときKarapchansko 村にいた。朝7時頃家でお茶を飲んでいた。突然最初の衝撃が来た(鉱山の爆破のようだった)。そしてすぐに2番目と3番目が来た。最初がいちばん強く2番 目は弱く、3番目はそれより弱かった。我々はここから10露里位のところで爆発が起きたと思った。地面は震動し家(農民の小屋)の間仕切りは振れ、村のす べての窓やそのそばにあったものは音をたてて揺れた。北のタイガに上空に私は白い明るい線があるのを見た。爆発はベラルーシ−リトアニア要塞の爆発と同じ ようだった」

8-24: 60° 19′ 107°52′ 332km 98°23′
Kaplin Petr Alekseevich 1895年生まれ。目撃場所、Zhdanovo 村。
「天気はよかった。それは夕方までにあった事だ。そのときちょうど馬に給餌していた。強い衝撃音(雷鳴のような)が聞こえてきた。そして太陽を2-3分隠 した、それからその物体が現れ空を飛んだ。その物体の尾はいろんな色の筋が混ざっていた。筋の色はだいたい10以下で、長さはおよそ40°だった。物体の 飛行には衝撃音を伴っていた。それは大砲の発射音に似ていた。強いうなり音駕したが、物体が見えなくなるにつれ弱くなっていった。物体は北へ飛び去り、そ れに伴うひどい風が吹き付けた。物体が地平線に隠れたとき音はしなかったが衝撃はあった、それが関連するかは判らない。雲はまったくなかった。物体が飛ん だとき玄関のガラスは震えた」彼はクーリックを知っており、彼と働いたことがあると言った。隕石の落下と仮定される地域で森林がなぎ倒されていることを 知っていた。

*1969 年KSEの質問に回答

8-25: 61° 16′ 108°00′ 331km 79°59′
Farkov Feofan Samuilovich 1897年生まれ。目撃場所Erbogachen 市。
「うなり音を聞いた、それでErbogachen 市の南の方向を見た。火のような束が空を飛んでいるのに気付いた。それはErbogachen 市の南西側にあり、左から右(すなわち西方)へ飛んでいった。それは速い速度で飛んだが私にはそれを観察する時間があった。それは細長く、頭部は黒ずみ底 から炎を出して火花を飛ばした。それが飛び去った後に、空にその跡が線として残った。地平線のかなたへ消えた後(この物体による)どんな炎も見えなかっ た。窓は震動でガタガタ音を立てた。すべての人はひどく驚き、そして言った「この世の終わりだ」と」

*1962 年V.G.Konenkin の質問に回答

8-26: 61° 46′ 107°48′ 330km 70°09′
Safiannikova Elena Ivanovna 1898年生まれ。Moga 村に住むエベンキ人。
「私は1908年にはLavrushka 町に住んでいた。私にはそれをよく観察できた。赤い玉が南側の左から右へ飛び去った。次に射撃音が聞こえた。すべての人々はひどく驚き、エベンキ人の老人 達は最高の服を着て死の準備をした。しかし、死ななかった」

*1962 年V.G.Konenkin の質問に回答

8-27: 60° 49′ 108°00′ 330km 88°40′
Farkov Innokenty Platonovich 1884年生まれ。目撃場所Oskino 村。
「戦争の前だった。朝うなり音が聞こえた。それは遠く−遠くからだったが、それはだんだん近づいてきた。地面は大きく揺れた。炎のようなものが速い速度 で、尾を引いて飛んでいるのが見えた。それは低く飛び、トウヒ(エゾマツ)の林に落ちたようだった」

*1965 年KSEの質問に回答

8-28: 60° 49′ 108°00′ 330km 88°40′
Kladovikov Georgy Stepanovich 1887年生まれ。
「1908年はOskino 村で生活していた。すでに仕事をしていた年齢だった。ツングースカ川でLogashinoやGazhenkuに行っていた。そのときは川の上で昼食中だっ た。船が大きく揺さぶられた。異様な音がして、その後射撃音のような音がした。何か赤い色のものがまっすぐ飛んでいた。星が落下したように見えた。落下の ときに衝撃があり、地面は震動した。しばらくして爆発があり、すぐに爆発音が聞こえてきた。落下したときは夕焼けのようだった」

*1969 年KSEの質問に回答

8-29: 60° 30′ 107°51′ 327km 94°56′
Farkov Egor Semenovich 1896年生まれ。目撃場所 Luzhki 村。
「火のような束が飛んでいるのが見えた。それは南の方向から飛んできて、北西の方向へ、左から右へ飛んでいった。父は叫んだ「戻りなさい」、「この世の終 わりだ」。我々は走って家に駆け込んだ、家に入ってから5分もしないうちに地震があった。吊るしてあったものは揺れた。私は3回の爆発音を覚えている。1 番目と2番目が非常に大きかった。3番目は少し弱かった」

*1962 年V.G.Konenkin の質問に回答

8-30: 58° 40′ 98°42′ 304km 217°19′
Loginova Vassa Yakovlevna 1893年生まれ。目撃場所、Klmino 村。
「10−11歳の頃の夏のことだった。朝の8−9時頃ぐらぐらと揺れた。天気は快晴で無風だった。納屋から肥料を運び出しているときだった。突然何度も大 砲の射撃音のようなものが聞こえた。森の上に柱のようなものが現れた(方位角45°)。それは1−3秒間見え、それから分裂した。柱は火のようで、動かな かった。衝撃音が2−3回したが音は移動しなかった。地面が震動し、窓ガラスが震え、食器はチリンチリンと鳴った。馬に乗った人は落ちた。風が吹いてき た。柱が消えた跡は残らなかった」

*1969 年KSEの質問に回答

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9.爆心地から 201〜300kmの目撃報告

数 字は緯度、経度、爆心地からの距離、爆心地からの方向(北から時計回りの角度)です。

-1 : 59° 14′ 106°11′ 300km 125°48′
Ineshin Sergei Rodionovich 1892年生まれ。目撃場所、Nepa。
「1908年にはNepaに住んでいた。聖使徒ペテローパヴロ祭(旧6月29日)の前のことだった。朝私が通りにいると火のようなボールが飛び去るのを見 た。Nepaでは多くの人がそれを見てひどく驚いていた。それは右から左へニジニャヤ・ツングースカ川に注ぐNepa川の北側を飛びそして地平線に隠れ た」

*1962 年、V.G.Konenkin の質問に回答

-2 : 59° 14′ 106°11′ 300km 125°48′
Farkov Ivan Vasilevich 1887年生まれ。目撃場所、Nepa。
「Podvoloshino で小船を引いていた。Nepa に近付いたとき、突然、大きな火が空を飛んだ。左側に向かって川の流れの反対方向に飛んだ。それはきわめて強い炎でまるでNepaを燃やすのではないかと 思った。それはまっすぐに飛び、大きな火の炎のようで進行方向が長かった。観察始めの方位角255°高度50°、消滅点の方位角330°。我々はこれは火 なのだろうかと考え、30分間空を見てそれから出発した。それから雷鳴のような異様な音が聞こえてきた」

*1965 年、KSEの質問に回答

-3 : 59° 14′ 106°11′ 300km 125°48′
Inyoshin Nikolai Ivanovich 1895年生まれ。目撃場所、Nepa。
「ずっとNape 村に住んでいる。それは昼食前のことで、その物体は西に向かって飛んで煙をひいて落下した。それは速い速度で地面に斜めに北西の方向に低く飛んだ。火の束 のようで色は真っ赤で火花を飛ばした。飛んだときは快晴で静かだった。落下後は煙が出てどこかが燃えたようだった。煙は3日間出ていた。地面が揺れ、窓は ガタガタ音をたてた。Kansk に落ちたという噂だった」

*1965 年、KSEの質問に回答

-4 : 59° 14′ 106°11′ 300km 125°48′
Zarukina Agrafena Petrovna 1882年生まれ。目撃場所、Nepa。
「昼間家にいると、突然暖炉から音が聞こえた。轟音は北西の方向から聞こえてきた。Logashino ではすべての人が轟音を聞いた。少数の人は光の束を見た。このような現象を説明できるものは誰もいなかった」

*1965 年、KSEの質問に回答

9-5 : 58° 22′ 99°58′ 300km 201°59′
Panova 1896年生まれ。目撃場所、Dvorets。
「10歳の頃だった、修道院の近くで生活していた。6月父と休耕地を耕していた。午前8時頃で朝食の頃だった。最初、飛行機の後に出る白い線のようなもの が見えた。飛行機のよりも幅が広かった。タイガのRozhkovoの方向へ進んだ(村から最も近い川の下流の村)。Ermyの河口からRozhkovo へ、東から出現し、太陽よりも低い高度を飛んでいた。太陽のように明るく、速い速度で飛行し、そして後ろに筋を残した。筋があったときは異様な音はしな かったが、それから音が聞こえてきた。「ああ、ああぁ」とエベンキ人は恐怖の声を上げた。地面は震動し、ガラスもふるえ、バケツの中の水は揺れた。衝撃は 2-3回あった」

*1968 年、KSEの質問に回答

9-6 : 60° 09′ 107°06′ 296km 103°45′
Konenkin Grigory Fedorovich 1889年生まれ。エベンキ人。
「1908年の夏はMoga 川のGerendaulya で生活していた。私には火のような隕石が飛んだのは判らなかった。しかし爆発音は聞いた、Kalinino 村から300°の方位から聞こえてきた。最初の音は非常に強かった。2番目と3番目はそれよりも弱かった。Chaika 川沿いで生活していたエベンキ人は強い音を聞いて、彼らのチュムがぐらついたと言っていた」

*1965 年、KSEの質問に回答

9-7 : 58° 41′ 98°56′ 295km 215°22′
Kulakov Efim Andreevich 1898年生まれ。目撃場所、Chadobets。
「12歳の夏までの季節だった。昼食までの時刻だった。天気は快晴で無風だった。 空に2つの火のような柱があった。それは少しずつ森に近づいて山の後ろ に隠れた。3-4かい雷鳴に似た衝撃音が聞こえた。音源は移動しなかった。地面は震動し家も揺れ、牛はたおれた」

*1969 年、KSEの質問に回答

9-8 : 60° 24′ 107°09′ 291km 98°23′
Farkov Mikhail Nikolaevich 1889年生まれ。目撃場所、Erema。
「夏の朝の10時頃だった。私は肥料を運んでいた。天気は快晴で静かだった。私自身は隕石は見なかったが3回大きな爆発音を聞いた。Erema のほかの住民たちも聞いた。これらの爆発ですべてのものは揺れた。人々は非常に驚いた。爆発音は西の方向から聞こえてきた」

*1962 年、V.G.Konenkin の質問に回答

9-9 : 60° 24′ 107°09′ 291km 98°23′
Grachev Gleb Borsovich 1894年生まれ。目撃場所、Erema。
「兄弟とErema 川にいた。天気は快晴だった。Erema 川の0.5km上流のZashl でしばらく釣りをしていた。悪天候のような異様な音がした。雷鳴のようで3回聞こえた。前にある堆肥が照らされた。火が近いところに落ちたようだった。頭 部は大きく後方に鋭い物体が北向きにまっすぐに飛んでいた。落ちるときに火花が飛んだ。煙が高度45°まで立ち上った。風が吹き込んできて、爆発音のよう な音が最初西から聞こえてきた」

*1965 年、KSEの質問に回答

9-10 : 60° 24′ 107°09′ 291km 98°23′
Safiyannikova Anastosiya Rodionovna 1899年生まれ。目撃場所、Erema。
「昼間で昼食に近い時刻だった。白熱の物体が飛んでいった。その後柱が空に現れた。柱が消えてから異なる方向から煙が立ち昇った。部屋の引き出しが開けら れたように大量だった。黒い煙でまるで山の石が崩れ落ちたようだった。そして轟音が聞こえた」

*1965 年、KSEの質問に回答

9-11 : 58° 19′ 102°48′ 290km 169°30′
Karnaaukhov Ivan Paluektavich 1892年生まれ。目撃場所、Tutama。
「17歳の6月のことだった、堆肥のところにいた。日没の方向へ(北から45°)に何かが落下した。すべては震えた。爆発は我々の上の空中だった。音は移 動した。音が止んでその後地平線上は電灯で照らされたような色になった。地平線上20-30m上空までフォーク状の火がもくもくと上がった、中心が最も明 るかった。1-2秒で火は完全に消えた。これは12時頃だった。轟音は20分続いた」

*1968 年、KSEの質問に回答

9-12 : 58° 19′ 102°48′ 290km 169°30′
Karnaaukhov Ivan Innokentievich 1888年生まれ。目撃場所、Tutama。
「7月の末のこと、休耕地を耕していた。太陽は照っていて暑かった。轟音は西へ行きもや(雲)を伴っていた。轟音が行ったところには灰色の雲のようなもの が現れた。(方位角75°)。大きな石が落ちたような音が30分間続きその後しだいに消えていった。轟音は村の下流へ行った。空で起きたことは何も判らな かった。ゴロゴロ鳴るような音は大きかった。ほとんど雲は残らなかった。地面は大きく揺れた。風はなかった」

*1968 年、KSEの質問に回答

-13 : 59° 21′ 106°18′ 289km 123°03′
Vasilieva Tatiyana Nikolaevna 1890年生まれ。目撃場所、Ika。
「1908年には Ika 川沿いのIka 村で生活していた。Ika 川はNepa 川に流入する。私自身は物体の飛行は見なかった。そして5軒の家の誰も見なかった。村のすべての人は草刈場にいて強くたたくような音を聞いた。叔父のT. N.Vasilev はNepa に行っていて物体の飛行を見たという」

*1965 年、KSEの質問に回答

-14 : 59° 21′ 106°18′ 289km 123°03′
Kuznetsova Elena Mikhailovna 1898年生まれ。目撃場所、Ika。
「空は快晴だった。雷鳴のようなものが聞こえてきて、北西の方向の空に火の束のようなものが飛んだ。飛行機のような速さだった。それはよく覚えている。雷 鳴は火の束の飛行の前に4回あった。Nepa 川の左を川の流れに沿って低く飛んだ」

*1965 年、KSEの質問に回答

9-15 : 58° 57′ 98°59′ 269km 218°16′
Kulakova Aleksander Samojlovna 1897年生まれ。目撃場所、Yurokhta。
「それはおよそ1910年頃のことで、8-10年の夏の午前8時頃だった。戸外で母と働いていた。雷があり窓が震えた。太陽は高く風はなかった。音は同じ で20-30分間続いた。地面は震動しなく、動物もそれには反応しなかった。その後風は強まり、窓は開き、ガラスは震えた」

*1969 年、KSEの質問に回答

9-16 : 58° 35′ 100°27′ 268km 198°10′
Sizykh Anastasiya Dmitrievna 1888年生まれ。目撃場所、Aleshkino。
「午前中で、太陽が高かった。川の左岸を牛を引いて歩いていた。突然物をたたくような強い雷のような音が響いてきた。雷ではなかったがそれが何か判らな かった。それはかつての雷と比較して天気と合わない。地上のすべては輝いていた。その物体は太陽の左側から現れて(10°離れて)下降し、地平線に隠れ た。それは最初赤くきらめいて下降して、稲妻のような細い尾を引いていた。尾から延びた筋はその後も残った。筋は赤かったが、それから白くなった。筋の横 幅はだんだん広くなり、少しくねくねして白くなっていった。筋が消えるまで10分くらいかかった。長い時間のように思えた。再び音がして下流方向へ移動し ていった。川の水面にさざ波が立った。村のいくつかの窓は長い間高い音を立てていた」

*1968 年、KSEの質問に回答

9-17 : 58° 35′ 100°27′ 268km 198°10′
Panov Padovan Arsentievich 1892年生まれ。目撃場所、Aleshkino。
「家のテーブルのところに座っていた。異様な音、なんという音!震動した。とおりに走り出ると、なんという火だろう、なにかの魂が筋を引いて空を飛んでい た。雨が大きく集まったように、太陽よりも大きく黒い煙を出していた。水平にまっすぐに飛んだ。雷鳴のような音は30分続き、地面は揺れた」

*1968 年、KSEの質問に回答

9-18 : 58° 35′ 100°27′ 268km 198°10′
Izmuil Ivanovich Sizykh 1890年生まれ。目撃場所、Aleshkino。
「我々12人の農民はその日の朝に船でアンガラ川 の左岸に渡った。Kova より6km上流だった。製粉所で使う挽臼石を採るためであった。突然・・・それを思い出すのは悪夢のようだ・・・地面が震動した。崖の石が崩れ落ちアンガ ラ川に落ち波を立てた。水の中の我々は恐怖で長いこと立ちつくした。北の方で雷鳴が聞こえたという。長い沈黙の後、Stepan老が言った「この世の終わ りに違いない・・・」。それから船を戻してすぐに家に戻った。村に我々が戻ると多くの住民が外にとび出していた。いくつかの家の窓ガラスは外れ外に落ちて いた。イコンも落ちていた。Stepan老の家の屋根も落ちていた。流刑囚のOsipEfimovich は我々のところに来ていった、窓から見ていたら光る物体が来て、そして地上に落ちたように思えた」

*1968 年、KSEの質問に回答

9-19 : 58° 36′ 100°39′ 263km 195°52′
Bykovl Pudovan Andrianovich 1884年生まれ。目撃場所、Nedokura。
「6月の午前10時頃、堆肥を運んでいた。兄弟のそばの馬はひざをついた。雷鳴のような音が15分間鳴り響いた。太陽より2-3倍大きく、やや長めの流星 が飛んでいた。青みがかった火のようで、飛行機のように飛んだ。それから恐ろしい音が聞こえてきた。何回も恐ろしい雷鳴のようなものがして窓が震えた。音 は硬いもの(コンクリートなど)を連続して打ちつけたような感じだった。物体は後から火のような尾を引いて北へ去った。飛んだ後のは20分間浮かんでい た。筋はだんだんと煙のようになった。ジェット機のようだったが、それよりも青かった。その後筋は消えた。物体はほとんど同じ幅で後ろのほうが狭かった。 物体の1/4の部分は炎のようで、太陽よりも赤かった。尾から煙を出していた。まっすぐに飛んで、見えなくなってからは少しの音もしなかった。クーリック がKezhma に来たときに叔父のところに泊まり、隕石が落ちたのだと言った」

*1968 年、KSEの質問に回答

9-20 : 58° 41′ 100°41′ 254km 195°59′
Bryukhanova Olga Panfilovna 1892年生まれ。目撃場所、Zaimska。
「春から初夏までの季節だった。家にいて食後だった。窓の上の方から地面のほうへ筋が見えた。火のような筋の色は赤、青、黄・・・誰もがおびえていた、我 々は死ぬと思った。この筋の下から柱のようなものが出た。柱の高さは30°まで伸びた。筋の全長はおよそ50°だった。色とりどりの美しい黄色のかたまり のようだった。それから赤く帯状になり、しばらくの間(あまり長くないが)空に浮かんでいた。その筋が見えてから、たいした時間を経ないで音がした。そし て地面は震動し、家や窓は揺らぎ、音はしばらく続いた」

*1968 年、KSEの質問に回答

9-21 : 58° 41′ 100°41′ 254km 195°59′
Bryukhanov T.I。目撃場所、Zaimska。
「我々は小船に乗っていて岸まで200サージェン(200×2.134m)のところだった。北西の方向に斜めに飛んでゆく光線を見た。後ろのほうが幅広く なっていて北方に下向きに飛んだ。地表に達する前にそれは森に隠れ、それが隠れた場所の上の空に光線が現れた。そして多くの煙が上がった。光線が隠れたと きに水の上に小さな波が立った。我々は桟橋に船を固定して陸に上がりZaimskya 村に入った。すぐに家に入ると、大砲に似た大きな音がした。それはしばらく続いた。そのとき地面と窓ガラスは震えた。光線は明るい炎のような赤い色だっ た、それを見たとき目が痛かった。煙がいつ消えたか私には判らなかった。光線が現れたのは約60°の高さだった」

*1930 年KezhmaでE.L.Krinovの質問に回答

9-22 : 58° 41′ 100°41′ 254km 195°59′
Sizykh Anisim Alekseevich 1896年生まれ。目撃場所、Zaimska。
「火の玉は低くわずかに地平線に向かって飛んだ。川に落ちたのではないかと思う。それはZaimka の上を下流方向から流れに反対方向に飛んだ。物体は黒味がかっていたように思う。火のような尾があり火花を飛ばした。大きさはほぼ10m(小船と比較し た)。それが飛び去った後に爆発音があった。馬はひざをついた。村の窓は吹っ飛んだ。爆発音は3-4回あった。天気は快晴だった」

*1970 年、KSEの質問に回答

9-23 : 59° 09′ 99°22′ 238km 217°09′
Suslov Mikhail Nikiforovich 1888年生まれ。目撃場所、Yarkino。
「20-23歳のときで、5月か6月の早朝で畑を耕していた。太陽が上っていて、小さな雲があった。最初に騒音がした。雨か雷雨のようだった。それから衝 撃があり地面が震動した。「稲妻」が騒音を出して空を飛んでいた。空中にあるときは何も起こらず離れていった。火のようでもあり稲妻のようでもあった。東 から西へ速い速度で飛び、村をとおり炎の尾を引いていた。それはもや(雲)の上を、飛行機よりも上を飛んだ。稲妻のように鋭い角度では動かなかった。飛行 機が畑の上を飛んだことがあったが、4kmの高さを飛ぶ飛行機のようだった。物体は何かをまきちらしたが、通った跡は残らなかった。雷雨のようなものが 去った後は窓は壊れていた。暖炉の火は吹っ飛んだ窓から飛び出ていた。激しい熱い風が吹いてきた。Cbadobts 村のほうへ風は行った。火事だと思いバケツに水をいれ走り出したが村は燃えていなかった」

*1968 年、KSEの質問に回答

9-24 : 59° 09′ 99°22′ 238km 217°09′
Rukosuev Mikhail Zakhiridonovich およそ90歳。目撃場所、Yarkino。
「12-13歳の頃の夏の朝だった。納屋が壊れた。丸太のような雲が上がった。大きい、大きいドスーン、ドスーンと3回大きな音があった。土砂崩れがあっ たのだと思った。音源はひとつだった。最初の音があった後に煙が上がった。煙は形が崩れ霧のように広がっていった。地面は震動し窓は吹っ飛んだ。風が吹き 髪が持ち上がった」

*1968 年、KSEの質問に回答

9-25 : 58° 57′ 101°26′ 217km 186°59′
Voronov Ignatyl Ignatevich 1895年生まれ。目撃場所、Mozgovaya。
「私が13歳のときで、12時頃だった。爆発音を聞いた。そして白い煙を引いた丸い雲のようなものが飛ぶのを見た。その丸い物体は太陽よりも大きく(5倍 くらい)本の少し細長かった。それが落下するまでの時間はまたたく間だった。熱は感じなかった。風が吹いてきただけだったが、これも長く続かなかった。最 初するどい射撃音のような音がしたが、それから少し鋭くないうなり音が多く聞こえた。炎はわずかで煙はすばやく消えた。それで山の森は焼けた」

*1968 年、KSEの質問に回答

9-26 : 59° 00′ 101°05′ 214km 192°30′
Safiyannikova Anastosiya Rodionovna 1899年生まれ。目撃場所、Erema。
「Kororin は落下の正確な年と日は覚えていないが、聖使徒ペトロ-パヴロ祭(旧6月29日)まで3-4日前くらいだった。朝の8-9時までのことだった。空はきれい で雲はまったくなかった。彼は浴室に入ってシャツを脱ごうとしていた。突然大砲の発射音のような音が聞こえてきた。それですぐに戸外へ走り出た。南西と西 の方向から聞こえてきた。音は続いていた、そして彼は南西の方向の地平線と天頂のおよそ半分の高さで赤い丸い物体が飛んでいるのを見た。そして両脇と後ろ には虹のようなはっきりとした線を引いていた。その物体は3-4秒間北東の方向へ飛んだ。(方向に関しては記憶していて、別荘でコンパスによって示し た)。音は火球の飛行中に聞き取れた、そして火球は森に隠れた」

*Kokorin が1930年1月にE.L.Krinov に語ったことを、Krinov が記述

9-27 : 59° 00′ 101°05′ 214km 192°30′
Nechaev Vasily Grigorevich 1901年生まれ。目撃場所、Kezhma。
「7歳のときだった。母は私の手をとって通りを歩いていた。東から北へ赤い火が飛んだ。尾を引いていたが、尾の色と明るさは違っていた。物体の先端から尾 までは長かった。リボンのような尾は色が複雑に混じり合っていて、弓のようでもあった。落下したときに大きな音をたて地面は揺らいだ。母と1km行く間す べての人々はこの空の現象について話していた」

*1968 年、KSEの質問に回答

9-28 : 59° 00′ 101°05′ 214km 192°30′
Zhuravleva Marfa Prokhorovna  69歳。目撃場所、Kezhma。
「空がまるでオーロラのように輝きだし、すぐに雷鳴が始まった。それは大砲の発射音のようで3-4回あった。地面は震動した。我々は畑にいた。子馬は逃げ 出した。家に帰ると、外と内の両方のドアが開いていた。そして2つのドアに向かい合っている窓も開いていた。煙については思い出せない」

*1960 年、KSEの質問に回答

9-29 : 59° 00′ 101°05′ 214km 192°30′
Kokorin Ivan Petrovich  1898年生まれ。目撃場所、Kezhma。
「10歳のときだった、祖父と川へ行きそこで炎を見た。そのときの光景を私はよく覚えている。地方時で午前6時頃のようだったと思う。きれいな快晴の天気 だった。私は小船のオールのところにいて、祖父は舵のところにいた。東から西への Kezhma 川の下流に向かった。川の半ばまで進んだところで炎を見た。祖父と私は同時に叫んだ「炎が飛んだ」と。それから連続砲撃のような音があり、そして異様な音 の反響があった。物体の形は単純で大きな炎であった。わずかに円錐形で上のほうの端は狭まっていてた。下側は高密度で、上のほうは散乱していた。色は黒味 を帯びた赤だった。固体のようでもあり大量の線の集合のようでもあった。それはまっすぐ飛んだかどうか覚えていないが、大きな炎が目の前を通り過ぎた。太 陽と比較するのは難しいが、幅については月と同じ位か。下降し、地面まで達した?どのくらいの時間だったか覚えていない。炎は消えたように見えた。それは 少し東に、これは私から左の北の上にあった。高度およそ20°、降下の傾斜は覚えていないがまっすぐ下に落下したように思えた。炎で目が焼けるようだっ た。その後連続的な砲撃音のような音が1分くらい続いた。大砲の発射音よりわずかに小さい1番目の衝撃音に続いて、5回の衝撃があった。それまでは非常に 静かで空はきれいだった。連続砲撃のような音は物体が来た方向から来た。連続砲撃の音の後、時間をおいて反響音があった。空気の波動が来たが、それは連続 砲撃音と同じ方向から来た。連続砲撃音と異様な反響音との時間差は5-6分だった。村に戻るとパニックになっていて、短い祈祷が行われた。母は泣いて「あ あ・・・みんなでここで生きてきたのに・・・」誰もこの現象について説明できなかった」

*1972 年、KSEの質問に回答

9-30 : 59° 00′ 101°05′ 214km 192°30′
1917年まで Kezhma は政治的流刑人が派遣された場所ののひとつだった。流刑人のT.N.Naumenko は仲間のGrabovskiy といっしょに大工の手伝いに雇われ、その仕事中に目撃した。
「1908年6月17日か18日かは正確に覚えていない。Grabovskiy と二人で板に鉋掛けをしていた。滅多に無いほどのよい天気で、私たちは地平線上一片の雲さえ気付かなかったほど晴れ渡っていた。風はなく、完全な静けさ だった。私は Angara 川−南に背を向けて座り、Grabovskiy は私のほうに向いていた。午前8時頃(すでに太陽はかなり高く上っていた)、突然非常に遠方の微かに聞こえる雷鳴がちょっと聞こえてきた。それは我々の思 わずすべての方向を見渡すことを余儀なくさせた。その際、音は Angara 川の彼方から聞こえたようだったので、直ちに私がその方向、私が背を向けていた方向へ急に向きを変えることになったが、地平線にいたるまで我々を取り巻く 空には一片の黒雲さえどこにも見えなかったので、我々から遠くのどこかでの雷雨だと考え、また板に鉋掛けをする事に取り掛かった。だが雷鳴は我々が3−4 回以上鉋掛けする時間のうちに急に強くなり始めた。だが地平線上には黒雲が見られない以上、雷鳴はなにやら異常なことが起きていると思ったので、鉋を放り 出し、もはや座ってもいられず、板から立ち上がらざるを得なかった。私が板から立ち上がったそのとき、急速に強くなってくる雷鳴の中で最初の比較的小さい 衝撃音が鳴り響いた。これは、私に急いで右に直角に、即ちそこから私のほうに明るい日光がさして来た南東に振り向くことを余儀なくさせ、そして私は雷の衝 撃音が聞こえた方向で、いくらか上方に、まさにそこから太陽が私の方に現れていた方向に視線を向けざるを得なかった。そして、太陽の右から幅広い輝いた白 色の帯が太陽を横切った、左から北方の(あるいはAngara からと考えれば、たとえばKezhma の畑の彼方)タイガへ不規則な形で強く輝く白色の(太陽より青白いが、ほとんど日光と同じ)、月より遥かに大きい直径で、境界のはっきりした輪郭のない雲 のようないくらか細長い塊が飛行した。
最初の弱い衝撃音の2−3秒位か、もう少し経って(我々には時計がなかったが、その感覚は正しいと思う)、2番目のかなり激しい雷の衝撃音が響いた。もし これを雷雨の衝撃音と比べれば、雷のときに起こるそれの最も激しいものだった。この第2の衝撃音の後、すでに塊は見えなくなり始めていたが、尾というより も帯はすでに全部太陽の左側にきてしまっており、それを遮断して右側にあったときよりも何倍も広くなっていた。そして第1と第2の衝撃音の間にあったのよ りもずっと短い時間を経て、すぐに第3の雷の衝撃音が起こり、非常に激しくて、あたかもその中ににいくつもの音が合体したようで、大地全体が震えだし、タ イガ中に反響のようなものが広がったが、反響ではなく、なにやら耳を聾せんばかりの間断ない鈍い響きであった。この鈍い響きは果てしないシベリアのタイが 全体を包み込んだようであった。
納屋の建築で働いていた大工たちが第1と第2の衝撃音の後で、困惑の表情で十字を切った。だが第3の衝撃音が鳴り響いたとき、あるものは呆然とし、驚愕 し、大工たち6−7人は建物から木っ端の上へ仰向けに次々に落ちた。Grabovskiy と私は、もう全部終わってしまったのだ、と言って彼らを正気に導き、落ち着かせねばならなかったほどだった。だが彼らは更に続くことを予期して、きっとも う世界の終わりが来たので恐ろしい裁きがあるの、などと言った。我々のいうことを聞かず作業を放棄した、我々もこの稀有な現象のためまったく困惑裡にあっ たことを認めざるを得ず、このような現象の本質を説明することに困惑したので、やはり仕事を放棄して村のほうへ歩き始めた。村には30人ばかりの政治的流 刑人がおり、彼らの中には高い教養を持つ者もいたので、我々は彼らからこの現象の正確な説明を得ることができるだろうと考えた。
我々が村に到着したとき、この稀有な現象を説明したあらゆる説について猛烈に議論している地元住民や仲間の流刑人の人々の多くの集まりに道で会った。我々 の仲間は皆屋内に居て、寝ていた者さえおり、そのため窓を、というよりは窓ガラスを鳴らしさえし、いくつかの家では激しい震動のため炉に割れ目ができた り、棚から食器が落ちさえした、あの異常な激しい雷鳴が彼らを目覚めさせた。我々といっしょに働いていた大工たちと同様、これら地元住民のところでも、正 気を失った顔で恐怖とともに、彼らがこれまで一度も見たことのないこの現象を、世界の終わりに関する迷信的な考えによって、異端に対する「恐ろしい裁き」 が近づいたのに他ならない、と解釈した。
こうして Kezhma 村全住民の間でこの現象に関するさまざまな説明のはてにこの日が終わった。彼ら(流刑人)は自分たちの解釈の中に、あの異常な激しい雷鳴の原因に在る、非 常に大きい隕石が地球に落下したという仮説を考え出した。なぜなら一般に特に夕方や夜に流星の飛行の観察の祭、我々には頭部の燃えるような閃光と、それか ら伸びる充分長くてかなり狭い尾が見えるだけで、この場合にあった尾は通常の幅と比べると以上に広く、そのような幅のおかげで、これは夜に私が見ることに なったものよりずっと短く見えた、だがその日の太陽の光と飛行そのものの時期によって、隕石の尾の後ろへの反射を減少、というより短縮した、と説明がつく であろう」

9-31 : 58° 58′ 101°54′ 213km 180°00′
Panov Kuzma Grigorevich  1891年生まれ。目撃場所、Panovo。
「18歳のときで6月だった。午前7-8時頃から休耕地の畑を耕していた。火事のように空が赤く焼けた。私は炎に包み込まれ、熱に包み込まれたように感じ た。その赤く焼けた空から黒い煙が昇り、轟音が響いてきた。それで地面は揺れた。赤く焼けた空は電球のような明るさであった。赤い色は筋状で上方へ7- 8m、幅は1mくらいで、筋は連続的だった。耕していた土地からははるか遠いところでおきたものだと思う。煙が少しずつ消えかかったとき3-4回の衝撃音 があった。地面のすべては揺れた。すべての筋と煙は消えて谷は石炭の
ように黒くなった。その後轟音がまたあって地面が震動した」

*1968 年、KSEの質問に回答

9-32 : 60° 20′ 98°16′ 207km 254°21′
Masmoro Trofim 1888年生まれ。目撃場所、Osharovo。
「若かったとき、時間に関しては正確には思い出せないが、トナカイを放牧していた。朝は雲があり、雨も降った。そして夜のように暗くなり、火花を飛ばして 稲妻のようなものが空を飛んだ。非常に激しい風が吹き、木が倒れ、2匹のトナカイが死んだ。蚊遣火からにげだしたトナカイもいた。大きな雷鳴が3回あっ た。最後のものは特に強く大きくドカンードカンードッカーンと、地面は揺れた。雲と雨は最後の衝撃音の時まであったがそれから再び快晴になった。物体の飛 んだ方向に雲のようなものがあった。物体はほぼ天頂からほぼ子午線に沿って30°の高さまで飛んだ。そしてその後落下した。たぶん飛んだのではない、なぜ なら落下したと思われるときにもっとも明るくて印象的だった。祖父はその後その物体を捜しに行ったが何も見つからなかった」

*1969 年、KSEの質問に回答

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10.爆心地か ら101〜200kmの目撃報告

数 字は緯度、経度、爆心地からの距離、爆心地からの方向(北から時計回りの角度)です。

10-1: 62° 00′ 104°30′ 186km 47°30′
Borisova Anna Danilovna 1898年生まれ。目撃場所、Ilimhei 川。
「子供の頃のことだった。太陽が上った頃母に起こされた。父が長く尾を引きながら落ちる火を見たといった。怖かったがチュムが吹っ飛ぶことはなかった。私 は西の方からのうなり音を聞いた。父の話ではその物体は西の方へ高く飛んで長い線を残したという」

*1969 年、KSEの質問に回答

10-2: 61° 00′ 104°25′ 137km 83°34′
Andreeva Ekaterina Yakovlevna 61-64歳。目撃場所、Severnaya Chunya 川。
「朝早い時刻だった、それまで聞いたことがない大きな爆発音を聞いた。雷鳴のようで地面が揺れた。風はあったが、暴風は雷の前に去った。雷の後にバナバラ の方向の空は赤くなったと、父は話した。雷による赤い色はすぐに消えた。煙は見えなかった。つむじ風が吹いてきて、その後雷鳴があった。つむじ風では木も チュムも倒れなかった」

*1969 年、KSEの質問に回答

10-3: 61° 50′ 103°23′ 132km 36°20′
Elkina Anna Yakovlevna 75歳、エベンキ人。目撃場所、Severnaya Chunya 川。
「朝早く午前5時頃だった。太陽が上って少ししてから雷鳴があった。それは高い高度からのように聞こえた。空全体が赤くなった。そして空だけでなく見渡す 限り赤い地面と空だった。それから強い雷があった。音は鐘を鳴らすような、鉄を打ち鳴らすようだった。雷は30分間あった。雷が始まったときには赤い色は 見えなくなっていた。それは一気に、同時に消えた。地面は大きく揺れ、チュムはよろめいた。風はなかった、雷だけがあった。煙は見なかった。朝はまったく の快晴だった」

*1969 年、KSEの質問に回答

10-4: 60° 08′ 103°44′ 131km 128°56′
M.S.Koinachenok 1910年生まれ。叔父のI.V.Koinachenok から聞いた話。
「叔父は隕石落下のときには Segochamba 川 にいた。それは朝のことで、天気は快晴だった。突然空は赤く、赤くなった。一方の側に多くの赤い線が伸びた。その後暗くなって、雷、地震、風が吹いてき た。神が落ちたといううわさだった」

*1960 年、KSEの質問に回答

10-5: 60° 08′ 103°44′ 131km 128°56′
Kainachenok Maksim Semenovich 50歳、エベンキ人。目撃場所、 Segochamba 川
「両親から聞いた話。隕石はこの辺に落下したようだ。この辺は赤くなった(バナバラの方向の空と、Khushmo川 を手で示した)。両親は Segochamba に居た。そこでは地面が揺れ、雷があった。最初、赤くなってそれから雷鳴があった。バナバラの方向は赤くなった」

*1960 年、KSEの質問に回答

10-6: 60° 00′ 103°00′ 116km 147°54′
Bushkov 75歳、エベンキ人。目撃場所、 Khatangskiraion。
「空に大きな塊を見た。家くらいの大きさで、白い火花を飛ばしていた。当時ハタンガ地方で生活していた。雷のようなものはそこから1.5kmくらい離れた ところに落ちたのではないか。強い熱気があり、それから煙が立ち昇った。それでも太陽は出ていてよい天気だった。雷は恐ろしく国中のものがひどく驚いた。 この世の終わりが近づいたのではないかと思った。その後、祖父はそこへ行ってみたが森と湿地に倒れた木以外は何も見つけられなかった。祖父はその後ひどい 病気になり、身体に水ぶくれができて大変苦しんで死んだ」
(1958-1959年の大衆新聞が伝えるところでは、人々は理解できない症状の病気を隕石の落下後は、それと結びつける。それでKSEの質問には医学面 のことが含まれていた)

*1959 年、G.P.Kolobsova の質問に回答

10-7: 61° 00′ 104°00′ 114km 82°43′
Kocheni Pelageya Gavrilovna。 目撃場所、Chunaya 川。
「私は20歳だった。Chunya 川の上流で生活していた。午前中の天気は快晴だった。突然ひどい風が吹いて来た。そして雷鳴がとどろいた。我々はおびえた。風でチュムは持ち上げられ倒れ た。そして何本かの木も。Khushmaに居た人が話してくれたところによると、納屋は壊され、チュムは風で吹き倒された。だれも病気にはならなかった」

*1959 年、G.P.Kolobsova の質問に回答

10-8: 61° 43′ 102°45′ 103km 25°56′
Andreeva Efaterina Yakovlevna と Petrova Anna Vasilyvna  2人とも70-75歳。目撃場所、Stpelka−Chunya。
「隕石落下のときはStpelka−Chunya の獲物取引所にいた。朝 Khushma のほうから雷鳴が聞こえた。雷は射撃音のようでもあり爆発音のようでもあった。雷は数分間隔であった。雷(爆発)の後空は赤かった。そしてタイガでは火事 が多く発生した。とくに Khushma 川 の方向では多かった。祖父が話してくれたところによるとKhushma では人々が意識を失い、トナカイが多く死んだ。チュムは吹き飛ばされた。Stpelka−Chunyaではそのような現象はなかった」

*1969 年、KSEの質問に回答

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11.爆心地から 51〜100kmの目撃報告

数 字は緯度、経度、爆心地からの距離、爆心地からの方向(北から時計回りの角度)です。

11-1: 61° 22′ 100°25′ 96km 304°37′
G.F.Plekhanovu が1959年12月に手紙で、G.Kolovkovaに伝える。
「Starik Kovshirchin とその妻のTatyana は私に語った。爆発によりChamba川、Panolika川、Kimchu川のチュムは破壊された。土砂が舞い上がりチュムに降りかかった。そのときに 火がついて革袋は燃えてしまった。灰の中から取り出したが、それは完全に使い物にならなくなっていた。病気については知らないという」

*1960 年G.P.Kolovkovaの質問に回答

11-2: 61° 22′ 100°25′ 96km 304°37′
L.V.Jenkoauly(1904年生まれ)が、父と叔父に聞いた話(2人とも1960年のずっと前に死んでいる)「そのとき兄弟で土地の7人の金持 ちから預かったトナカイ6〜700頭を引き連れて放牧していた。父はその日トナカイを引き取りに Ilimpo(北の方)へ行った。群れはKimchu川とPolnoty(Churgim)川の間に放牧してあった。Polnoty川の上流にひとつ小屋 があり、チェコ湖に第2の小屋があった。Polnoty川の小屋は燃え尽き、灰だけが残っていた。チェコ湖の小屋は暴風によって壊れていた(吹き飛ばされ て)。Khushmaの川口の彼らのトナカイは焼けて燃え尽き、ただ灰だけが残った。チェコ湖のトナカイはかたまって倒れていたが、焼けてはいなかった。 彼らはトナカイの死に唖然とした。叔父は言った。アグダ(Огды)が天から降りた。
朝早く雷があった。天気は快晴でどんな雨も降らなかった。2回の衝撃があった。最初のは短く強く、2番目は長く、火花が飛んだ。北西から南東へ疾風があ り、その強い風が森を破壊し、地面は揺れた。Polnoty川の上流の森の木はいろんな方向に倒れていた。チュムは空中に吹っ飛び、人々は倒れて気を失っ たが、その後意識をとり戻した。
その年、驚いたシャーマンのChanchiuは今後その場所に行くな、そこへ行ったら死ぬことになると、言った。しかし、人々は行った。その夏、叔父はト ナカイを捜しに行ったが、何も判らず、鉄片や珍しい石も見つけられなかった」

*1960 年G.P.Kolovkovaの質問に回答

11-3: 61° 22′ 100°25′ 96km 304°37′
Torkichenok Andreya Vasilevich(1895年生まれ)。
「我々の家族はChuvar山脈の宿営地にいた(Kimchukan川とKhushma川の間)。それは1908年に起こったと思う。私は10代であっ て、それを覚えている。夏の朝、雷鳴がとどろいた。地面は震動し、多くの森の木が倒れた。チュムさえも空中に吹っ飛んだ。その日倒れた森の木は Chuvar山脈だけでなく、KimchuとKhushmaの間の森もそうであると、他のエベンキ人の狩人と我々の話は一致した。私は破壊された森は同時 に生じたと確信している」

*1964 年V.G.Konenkinの質問に回答

11-4: 61° 22′ 100°25′ 96km 304°37′
Dmitrieva Mariya Vasikevna 96歳。
「大災害のときはKimchu川の河口ちかくの宿営地にいた。そこには6〜7以上の白樺の樹皮でできたチュムがあり、50人くらいが住んでいた。その朝は 雨ではなかったが、細長く高い雲があり、風はなかった。早朝だったが、多くの人は起きてチュムの外に出ていた。突然爆発があった。爆発の間地震があった。 いくつかのチュムは爆発で揺れ、倒れないように手で支えなければならなかった。同時に、雷鳴とは違う強い音が2つか3つ、響いてきた。それは長い時間、 ヴィーン、ヴィーンと響いていた。雷鳴のような音はしだいに治まった。トナカイは蚊遣火のところで身動きせずに立っていた。音と風は南東の方向から来た。 爆発の後に空は赤くなり、長い時間空は赤く焼けた。その赤い色は少しずつ薄くなり西の方へ去った。空の赤い色は短い時間は顕著だった。爆発は離れていな く、地上ではなく高いところであったようだ。爆発の方向から火や煙が立ち昇るのは見なかった。すべては空高くで起きて、音はどこからか進んできた。少しの 時間何かが昼の太陽の高さから下降してくるのを見た」

*1969 年KSEの質問に回答

11-5: 60° 05′ 102°19′ 92km 165°18′
Egor Danilovich Shigldichin の母は隕石の落下のことをよく覚えているが、彼女はすでに100歳に近く、耳がよく聞こえず、話を聞くことは難しい。母に聞いた話を語った。
「チュムはTetere川沿いに建っていた(バナバラから東へ40km)。それは皆が眠っている早朝に起こった。突然ライフルの射撃音のような音が聞こえ てきた。この時刻に誰か通りにいるのかと思って、外へ出ると何かが、空を半分に割っていた。東から西へ明るい線が通っていた。後から隕石の落下により多く の人々が意識を失ったり、耳が聞こえなくなったと、言い合っていた」

*1959 年KSEの質問に回答

11-6: 60° 05′ 102°19′ 92km 165°18′
E.S.Daonovoi。
「Khushma川から30km離れたところにいた。最初は射撃音のように聞こえ、それから雷鳴のように轟いた。悪魔の仕業のようだった。木は回転しなが ら倒れた。私は2日間気絶していた。後で、トナカイ1000頭以上が死んだといわれた。アグダ(Огды)が激怒しないように、この地域に入らないように と言われたが、父はこの年の8月に大災害地域にあった小屋を調べに行った。行ってみて判ったことは、すべてなくなり、すべて燃え尽き、多くの沼ができてい た。伝えられるところでは爆発のあった場所には湿地ができたと言う」

*1959 年KSEの質問に回答

11-7: 60° 20′ 102°17′ 65km 160°48′
Ilia Potapovich Liuchetkan 1876年生まれ。
「悪魔のようなひどい出来事だった。なにかが地面に向かって落下し、すぐに森林は焼けた。私の28頭のトナカイはすぐに焼け死んだ。私は沼にいたので助 かったが、倒れた。恐怖でバナバラに駆け戻った。すべての人々(ロシア人)はひどく驚いていた。彼らの家の窓ガラスはすべて壊れ、炉は割れていた。祖父は ベンチに座り込んでいた。彼は突風に持ち上げられ、地面に投げ出された。そして3時間気を失っていた。なにか自分自身で見なかったか、彼に尋ねた。なにか 判らないものが森の上を低く飛んで、射撃音のような音を連続的に発した。そして落ちたときには非常に大きな大砲の発射音のような音がした、と。それ以外は 話さず、再び聞くと怒った」

*1935 年KSEの質問に回答

11-8: 60° 20′ 102°17′ 65km 160°48′
Semena Borisovich が1941年にクーリックに伝える。
「1908年6月はポドカーメンナヤ・ツングースカ川沿いのAnovara(Vanavara)の獲物取引所で仕事をしていた。その日の午前8時頃、玄関 のところに座り顔を北のほうに向けて仕事をしていた。突然北西の空が燃え上がった。そこからの熱を感じ、座っていられなかった。私の着ているシャツはかろ うじて燃え上がらなかった。そして私は不思議な灼熱したものに気がついた。部屋に2露里より小さなものが出現して、激しく燃え上がり非常に短時間しか存在 しなかった。私だけが見ることができた。そのものが瞬時に見えなくなり、見えなくなると暗闇になった。そして同時に爆発があり、私は玄関に投げ出された。 およそ1サージェン(2.134m)以上だった。私は短い時間気を失っていた。意識を回復すると不思議な音が聞こえてきた。建物のすべてはぐらぐら揺れ、 ほとんどのもは移動し場所を変えていた。家のガラスは砕け、農家はつぶれ境界からはみ出ていた。ドアはほとんど破壊されたが鉄の錠だけは完全なままだっ た」

11-9: 60° 20′ 102°17′ 65km 160°48′
S.B.Semenovに、E.L.Krinovが1930年のクーリックの探検隊に参加した際に質問した。
「年は正確には覚えていないが、湿地を耕作していた20年以上前のことだった。朝食の時間で、私は家の前で北のほうを向き、小桶に金輪を取り付けようとし ていた。そのときツングースカの親愛なるVasiliya IlichaOnkoulの上方に、突然空を2つに分け、広い森の上の(高度約50°注:Krinov)北側の空はすべて火で覆われていた。瞬時に私は熱 くなり、我慢できなくなった。私のシャツはまるで焼けたようになった。それは北側から来た火のような熱気だった。私はシャツを引き裂いて投げ捨てた。その 瞬間空でないところから大きな音がして、強い衝撃音が響いてきた。そして私は3サージェン(3×2.134m)も吹っ飛ばされ、意識を失った。しかし、妻 が家から走り出てきて、私を家に引き入れた。それから衝撃音のような騒音が来た。それはまるで、石が落下するようでもあり、大砲の射撃音のようでもあっ た。地面は震えた。家の天井が開き、北から大砲のように熱風が
入ってきた。なにかがタマネギ畑に小道のような跡を残していった。
その後に判ったことは、多くの窓のガラスは割れていたり、外れていた。そして納屋のドアの鉄の錠が折れていた。火が現れたとき私は、P.P. Kosolapovが家の近くで地面にしゃがんで仕事をしていたが、頭を両手で押さえ家に駆け戻ったのを見た。
同じ年の冬、私はTungusの Ivan Ilich の所に立ち寄った。そこで次のような話を聞いた。「雷雨で倒れた森、それは神が地面から引き抜いたのだ。そこには倒れた木が隙間なくある。そこには浅い溝 があり、側溝の高いところには石が多く含まれている。溝は乾いていて水はない。鳥は餌が採れなくなって場所を移動した。我々のLakure の小屋は焼けた」」

11-10: 60° 20′ 102°17′ 65km 160°48′
E.L.Krinovは1930年S.B.Semenovに質問した後に、娘のA.S.Kosolapovにも質問した。
「19歳のときだった。Vanavaraの獲物取引所にいたときに隕石の落下があった。我々はMarfoiの泉のところに来ていた。Marfoiは水を汲 んでいた。私はそばに立って北の方向を見ていた。そのとき北の空と、地上の多くのものが明るくなるのを見た。そしていろんなものに火がつき真っ赤に燃え上 がった。私はかろうじて言った「どうして、昼間なのにこの空は真夜中だ。日中にこんなことになるのは聞いたことがない」。私は何かが高く上がるのを見た。 空は再び日中に戻り、衝撃音が聞こえてきた。それは大砲の射撃音のようだった。空から何かが石を落としたのだろう、恐怖で泉に桶を置いて走って逃げた。私 は少し前かがみになって、石が当たるのを恐れて手で頭を覆って走った。けれど、石は頭に落ちなかった。Marfoiは私の後に走った。
家へ駆け寄ると父が、家の玄関の反対側の納屋の、前で気を失って倒れていた。母とMarfoiと私で父を家の中に入れた。熱い火の出現の瞬間のことは私は 覚えていない。その間我々は大変におびえていた。火は太陽よりも明るかった。音がしている間、地面も家も震えていた。そして天井からパラパラと何か床に落 ちた。最初の音は非常に大きく頭の上から聞こえた。それから少しずつ小さな音になった」 

11-11: 60° 23′ 101°58′ 56km 176°04′
Axcenov.N.I 1903年生まれ、1960年に、Vasili Okhchen と Pavel Doonov の2人の老人から聞いた話をG.Kolobkov に知らせる。
「チュムはChambe川の河口に建っていた。早朝までは静かだった(眠っていた)。突然チュムはひどい風に持ち上げられ、上に飛んだ。それから雷鳴が響 き、木は倒れた。まるで爆弾が爆発したようだった。その後、Khushma川の付近は火事になり、タイガのすべては燃えた。地面は震え、大砲の射撃音のよ うな雷鳴は長く続いた」

11- 12: 60° 23′ 101°58′ 56km 176°04′
I.M.Suslovが1926年にUkigo(エベンキ人、80歳)に質問した。
「我々は、父の親友Liurbuman とChambe川の河口に近い岸に居た。チュムの中には、父と妻と4人の子供が居た。早朝、突然の犬の遠吠えに子供たちは泣いた。妻と父と私は目を覚まし た。驚くべきことが起こった。強い音が聞こえた。我々の地面の下で何かがたたいているようで、チュムが揺り動かされた。我々は苦労して外へ出た。突然何か に地面に押し付けられ、私は倒れ、叫んだ。皆叫んだ、そして泣いた。誰かが鉄砲を打ったようだった。Liurbuman はチュルギム川の崖が崩れたと言った。突然、再び地面を激しくたたきつけるような衝撃があり、チュムの中の金属製のテーポットが落ちた。雷が落ちたのだろ うか、私はすぐに衣服を着てチュムを出た。空は晴れていて、雲がなく暑かった。なにが起きたのか私はLakuru山の上のほうを見た。突然、空が激しく輝 き、雷鳴が響いた。私はおびえて、しゃがんだ。樹木が風で倒れ、地面の枯れ木に火がついて火事が起こった。どこからか異様な音がしてきた。立ち上がって見 ると、カンタンガ川に向かって2頭のヘラジカが駆けていった。そして子牛と2頭のトナカイも。
ひ どいことになった私のチュムのところに戻った。父も妻も仲間は倒れた木に腰掛けていた。そのときの我々の見方では、太陽が沈む方向(すなわち北側)、その どこかで驚くべきことが起こり、何かが2回衝突したようだ。Kimchu川の方向から大きな煙が上がり、タイガは燃え、強い熱気がそこから来た。突然そう 離れていない、近くのChunku川の方向で大きな雷鳴が鳴り、そして煙が上がった。私はそれをよく見るために動物が走ってきて、熱が来る方向へ行った。 驚くべきことが起こったのが判った。乾いた草、乾いた小枝は燃え、森のすべての葉は干からびた。非常に熱く煙が目にしみ た。それはまったくありえないような光景だった。私はすっかりおびえChambe のチュムに戻った。私は父に見たことのすべてを話した。父はおびえ、そして死んだ。その日、我々のツングースの信仰にしたがって葬式をした」

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12.爆心地から  〜50kmの目撃報告

数 字は緯度、経度、爆心地からの距離、爆心地からの方向(北から時計回りの角度)です。

12-1: 60° 28′ 101°57′ 47km 176°26′
Aksenov Ivan Ivanovich 1884年生まれ。
1908年の初夏、24歳のAksenovは他のエベンキ人のグループとともにYakukta川の河口付近に居た。彼らは4つのチュムで生活していた。 Aksenovは早朝Chambe川へ、ヘラジカ狩に行った。Makikta河口より上流で獲とめたヘラジカの皮をはぎ、臓物を抜いていた。獲物の身体に かがみこんで仕事をしていたとき「突然すべてが赤くなった」 驚いて頭を上げた「その瞬間、衝撃があった」そしてしばらく気を失っていた。
意識を取り戻すと周囲の木々が倒れ、燃えていた。空には神が飛び、悪魔が飛んでいた。悪魔の身体は短く明るく、前方に2つの眼があり、後ろは燃えていた。 怖くなって衣服を着て祈った(異教の神ではなくイエス・キリストとマリアに祈った)。
Yakukta川の河口の野営地に昼食前に戻ると、残っていたものすべてはぼんやりしていた。呆然と座っており何も判らないことが起こり、驚きのあまり眼 を大きく開いていた。夕方までに彼らはしだいに正気に戻った。悪魔が落ちた場所では煙が立ち昇っていた。エベンキの風習で燃えているところは消しに行く、 のでAksenovとDaonovは怖かったが消火に出かけた。Chambe川の岸から1kmのShelle の地域にたどり着いた。そこには山が二つあり、その一方からは刃物研ぎ用の石を取ったのでよく知っていた。ひとつの山では地面が陥没し穴ができ、湖のよう に水をたたえていた。二つ目は半分に切り取られていた。湖の水は丸く動いていたが水面に何か白っぽいもの、獣脂か揮発油のようなものが漂っていた。

*1967 年KSEの質問に回答

12-2: 60° 33′ 101°36′ 41km 203°19′
Kokorin K.A 64歳は1930年1月1日にE.L.Krinov に自分の目撃を知らせた。
「正確な年や日付は覚えていないが、Petrの祝日の3-4日前だと思う。8時か9時でそれより遅くはなかった。空は完全に晴れ渡り雲はなかった。庭にあ る浴室に入ってシャツを脱いだばかりのとき、突然砲撃のような音がいくつか聞こえてきた。すぐに庭に飛び出すと、音はまだ続いていた。南西に天頂と地平線 の間の半分の高さに飛行している赤い球を見た。その側面と後ろには虹の帯が見えた。球は3-4秒間飛行し、北東に消えた。音は飛行の間中聞こえていたが、 球が森林の後ろに隠れたときに、急に止まった」

12-3: 60° 43′ 102°28′ 36km 120°58′
1926年I.M.Suslov が Il’ya Potapocich(Lyuchetkan) の兄弟の後家さん Akukina の話を記録。
「1908年はKhushma の合流点近くの Dilyushma 川の河口近くにチュムがあった。チュムの中には私たち3人−亭主の Ivan と Okhochen の子供と私と、Vasiliy 老が居た。突然、何者かが私たちのチュムを激しく押した。私は恐ろしくなり悲鳴を上げて Ivan を起こし、寝袋から這い出し始めた。私とIvanは這い出しても立ち上がらない間にまた何者かが私たちのチュムを激しく押したので、私たちは倒れた。まる で何者かがVasiliy老を投げたかのように、彼も私たちのほうにひっくり返った。周囲から騒音が聞こえ、何者かが騒ぎ立て、ellyun(なめし皮製 のチュムの覆い)が音をたてた。突然周囲が非常に明るくなり、明るい太陽が輝き、激しい風が吹いた。
その後、あたかもKatanga川で冬の氷が割れたような破裂音が聞こえ、ellyunを締めていたuchir−plyasumが吹っ飛び、旋回しながら 飛び去った。チュムの骨組み30本中6本だけが残った。私はすっかり怯えて正気を失い、竜巻を見て悲鳴をあげ、すぐにまた正気に戻った。竜巻はチュムの骨 組みを私のほうに倒し、打撲傷を受けた。私は骨組みから這い出すと泣いた。食器箱はチュムから放り出され、遠くに転がって開き、多くの茶碗が割れた。森林 のほうを見ると、多くの大木が葉も枝もなく立っていた。とてもたくさんの丸太が地上に横たわっている。地面では乾いた大木、枝やトナカイゴケが燃えてい る。なにやら衣類が燃えているので近づくと、ウサギ皮の掛け布団と、Ivanの寝袋だった。
IvanとVasiliy老人を捜しに歩き回った。裸のカラマツの枝に何かぶら下がっているのを見つけ、歩み寄り、棒を伸ばしてはずした。これはチュムの 竿に結び付けられて掛かっていた私たちの毛皮だった。キツネの毛皮は焦げ、シロテンは黄ばんだ色になり、煤煙で汚れていた。リスの毛皮はシワがより、乾き きっていた。私は毛皮を取って亭主を探して歩き回った。地面では枯れ木が燃え、トナカイゴケが燃え、一面の煙だった。急に誰かが弱々しく呻いているのが聞 こえた。声のほうに走り出すとIvanが大木の枝の地面に横たわっていた。彼の腕が丸太にあたって折れ、骨が服を破って突き出し、その上で血が乾いてい た。そこで私はまた倒れたが、すぐに気をとり直した。Ivanは目を覚まし、もっと大きく呻いて、泣き始めた。竜巻がIvanを吹き飛ばしたのだ。 Ivanは無事なほうの腕を私の首を抱き、私は彼を持ち上げた。Dilyushmaの川岸にある私たちのチュムへ向かって歩き始めた。そこにはヘラジカの 毛皮2枚、粉袋と網がおいてある物置もある。
突然誰かが悲鳴を上げているかのような声が聞こえた。Vasiliyが倒れたカラマツの大木の根元にもぐりこんでいた。Vasiliyは這い出て、私たち と一緒にチュムに向かって歩いた。暫くすると私は疲れ、IvanをVasiliyに渡し、自分は焦げた毛皮だけを持って歩いた。倒れた大木が非常に多くあ り、進むのがしだいに困難になりだした。私たちは細かく割れた丸太と、それらの下にあるヘラジカの毛皮が地面にあるのに気付いた。毛皮の上の毛は焦げ、革 はシワだらけになり焦げていた。
魚網のかわりに石の重錘の山を見た。馬毛製の魚網は燃えてしまっていた。丸太は燃えてしまい、燃えさしの木っ端になっていた。粉袋は黒い石になっていて、 私がそれに棒を突っ込むと石−炭は砕けた。私はその真ん中で僅かな粉を見つけてVasiliyの服に包んだ。こうして私たちの物置は無くなってしまった。 私たちは暫く休んでから、私たちのチュムを探して歩いた。私たちのチュムがあった所は、竿が地上に横たわり、それらの上に大木が倒れ、その大木はひどく焼 けていた。私はそれを割って脇に引っ張って除けた。その下から大鍋を見つけた。
明るい夏の夜になり、火災は弱り始めた。暑気にかわって寒くなりだしてきた。私たちはKatangaの方へ行くことに決めた。Chambe川に出たとき、 私たちはすっかり弱っていたが、不思議な物凄い不思議に出会った。森林がまったく私たちのものではなくなっていた。私はこのような森林を見たことが一度も ない。これはなにやら見知らぬものだ。私たちのところにあったのは鬱蒼たる森林、年老いた森林だ。だが今では多くの場所にまったく森林が無かった。山の上 ではすべての大木が横たわって明るくなり、遠方が全部見える。また山麓の湿原は、ある大木は立ったまま、あるものは横たわり、あるものは傾き、あるものは 互いの上に倒れ、通れなかった。多くの大木が焦げ、枯れ枝や苔はまだ燃え、燻っていた。Katangaに出ると私たちはLyuchetkanに出会った」

12-4: 60° 43′ 102°23′ 32km 125°09′
Nastya Anastasiya Dzenkoul’の目撃証言をG.Kolobkova が1959年11月に記録。
「1908年当時は父と祖父とともにKhushmo河畔に住んでいた。よい天気であったが、突然雨が降り始め、強風が起ってチュムを遠くに吹き飛ばした。 チュムほどの大きさの巨岩が落ち、2・3回跳び上がったが、その後湿地に沈んだ。岩は光り輝く黒色で、ウ−ウ−ウという恐ろしい音とともに落下した。木々 を投げ散らかし、根こそぎにした。皆は死んだようになって3日間横たわった。そこにいつもあった湿地は、乾燥したばかりだったのでトナカイを放牧してい た。事件の後の別な年に全員が発病した。冬に皆が病気になり、斑点に覆われた身体を掻いた。おおぜい死んだ。
夫がChavidokonで狩をしたとき、二つの穴を見た。一方は小さく、もう一方はチュムのような大きさで直径6mで、下のほうが狭くなっていて端では 土に錆がついていた。錆びた土をVanavaraに持ってくると、それは輝いて夜の雪のように闇の中で光った。そこには疎らな倒木がある。穴は河口から 2kmのChavidokon左岸で岸から0.5kmにある」 

12-5: 60° 43′ 102°23′ 32km 125°09′
Shelekina E.Ya 79歳。
「1908年に住んでいた南Chunya河畔のStrelkaで早朝に大地が震えるほどの雷があった。恐ろしくてチュムから出られなかった。雷はまるで連 続して砲撃していたように激しく、皆は耳が聞こえなくなった」

*1959 年KSEの質問に回答

12-6: 60° 43′ 102°23′ 32km 125°09′
Aksenova O、1908年当時は20〜24歳。
「1908年はMutoray川上流に住んでいた。朝早くはよい天気だったが、後に風が吹き、雨の直前のように暗くなり大地が赤くなり、激しい雷鳴が始 まった。私には空には何も見えなかった。噂によるとKhushmo河畔では激しい火災があったという。私はそこへ行っていない」

*1960 年KSEの質問に回答

12-7: 60° 43′ 102°23′ 32km 125°09′
Aksenov N.I 1903年生まれ。Vasiliy Okhchen 老人とPavel Doonov(戦前に死亡)が彼に話したこと。
「朝早く、皆はまだ寝ていてた。いくつかのチュムがChambe河口に立っていた。すると突然チュムが上に飛び上がり、強風が起こり、雷鳴が響いて、木々 が倒れた。原子爆弾の後のように綺麗さっぱりになって、それからKhushmo河畔で火災が始まった。タイガ全部が燃えた。大地が震えて、大砲の連続射撃 のような雷鳴が続いた。湿原の場所は以前は立派な針葉樹林で、トナカイにとってはよい餌場だった。爆発の犠牲者は居なかった。人々は暫く横になって、それ から立ち上がった。その後病気にもならなかった。そこへ行くのを怖がらなかったが、そこは森林の焼け跡で、トナカイには何も食物が無かったので行かなかっ た。これほど大きな風倒木にはどこでも出会わなかった」

*1960 年KSEの質問に回答

12-8: 60° 43′ 102°23′ 32km 125°09′
Torkichenok Andrey Vaslevich 1895年生まれ。
「我々の家族はChuvar尾根(Kimuchu 川と Khushmo 川の間)に野営地を持っていた。あれが起こったのは多分1908年の夏の朝で、私は少年だった。雷鳴が響き始め、大地が震え始め、多く木々が倒れ、チュム までが空中に飛び上がったのを覚えている。そのご他のエベンキの狩人との話で、私たちはあの日森林を倒したのはChuvar尾根だけでなく、Kimchu と Khushmo の河間地帯でも森林を倒したことを確かめた。そこで私はこれら双方の倒伏が同時に起こったことを断言できる」

*1960 年KSEの質問に回答

12-9: 60° 43′ 102°23′ 32km 125°09′
Donova Ekaterina Stepanovna エベンキ人、58-60歳。Vanavara の住民、近親の話から事件のことを知っていた。
「隕石落下当時、両親はKhushmo河畔に滞在していた。皆、恐慌状態になったが火災は無かった。しかしKulikの家の近くにあった物置が破損し、屋 根は破壊され、物置の中の全部、粉やその他の物質を腐らせた。我々は豊かだった。隕石が落ちたところには我々のトナカイが1000頭居た。雷鳴のためそれ が全部逃げ散り、その後どこにもトナカイは見つからず、骨も見つからなかった。8月に探しに出かけ、1ヶ月探したが骨も見つからず、痕跡、足跡も見つから なく、どこに隠れたのだろうか、と驚いた」

*1964 年KSEの質問に回答 

12-10: 60° 43′ 102°23′ 32km 125°09′
Yakochon Andrey Petrovich エベンキ人、80歳。
「事件のときは両親といっしょにVanavaraに住んでいた。飛行機の爆音のような、長い異常な雷鳴が聞こえた。あとで老人達は、雷はまるで何かが飛ん でいるようにゆっくりだった、語った。この飛行物体と雷鳴は北に向かった。遠くに飛んだのか否かは誰にも判らなかった。落下場所で異常な火災があった、と 話していた。大地が燃え、砂が融けた、と」

*1969 年KSEの質問に回答 

12-11: 60° 43′ 102°23′ 32km 125°09′
Panov Vas Gr 1895年生まれ。
「1908年当時はAngara河畔に居た。幅広い青色の帯が天を上から下へ切り裂き、その後赤くなり始めたのが窓から見えた。そして畑で馬が相継いで倒 れたほどの射撃音の様な音が響いてきた。Vanavara ではすべてのガラスが次々と飛び出し、一人の人を玄関先から投げ出し、その人はその後無意識で横たわっていた、と皆は言っていた。Khushmo河畔では 多くのチュムが吹き飛ばされ、人々の半数は元気を取り戻したが、半数は死んだそうだ。その後、この場所で天然痘やチフスと呼ぶ病気が猛威を振るった」

*1959 年KSEの質問に回答

 
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