人 名リスト>ツングースカ事件に魅せられ た人を紹介します

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  ツングースカ(非実用)人名辞典                                              


更 新:2012.02.27 Kulik加筆

こ の人名リストに載せた規準は、ツングースカ異変地域に行っていること、ツングースカ異変に関する論文等を発表していること、異変地域の地名に名を残してい ることです。他に忘れている人もあるかもしれませんが、私の趣味を強く反映しています。載せなくてはならない人でも、正確な名前や綴りが不明な場合は載せ ていません。調べ次第載せます。ここに載せた人の綴りや内容、ロシア語綴りから英語綴りの変換には注意したつもりですが、間違いがあるかもしれません。こ のWebから孫引きしようという奇特な方はいないでしょうが、引用する場合は注意されたほうがいいでしょう。間違いは指摘していただければ早急に訂正しま すのでよろしくお願いします。先駆者クーリックは初期のツングースカ調査の歴史でもあるので特に詳しく記述してあります、他の興味深い人たちの内容も調べ て追加したいとおもいます。
このリストによく出てくる KSE というのは1959年ロシア・トムスク大学の若手研究者や学生を中心に結成された、総合自主探検隊(Комплексной Самодеятельной Экспедиции) の略称です。現在でも活発に活動を続けておりツングースカ異変調査の中心的存在です。(
英訳された論文ではIITE(Interdisciplinary Independent Tunguska Expedition) となっていたり、ITEG(Independent Tunguska Exploration Group) となっていることもあります、ここではいちばん最初に用いられたKSEにしました)

  A  B  C  D  E  F  G  H  I  J  K  L  M  N  O  P  R  S  T   V  W  Y  Z   KSE

Abe Ryosuke (安倍亮介) 日本
1994年、ツングースカ異変地を訪れ放射能の測定などを行う。益富地学会館(京都)に勤務していた関係で鉱物・
地質に大変詳しい。

Akaenov (Okhchen) Pave エベンキ

1927年クーリックの第 1回遠征の案内人。

Andreev Gennady Vasilevich Андреев Геннадий Васильевич ロシア  1950-2002
トムスク大学の天文学者、流星研究者。1967年から多くのKSEに参加。ツングースカ異変の国際調査の必要性を Vasilev 訴え、2つの国際シンポジウムと7つの国際調査を主催。日本から初めて調査に参加し た1992年には大変お世話になった。心臓病により死去。

Andreitchenko Valentina   Андрейченко Валентина) ロシア  -2012
トムスクの高校教師。多くのKSE、ITEに参加。1992年にはいろいろ親切にしていただいた。ニュージーランドで癌のため死去。

Anfinogenov Dzhon Fedorovich Анфиногенов Джон Федорович) ロシア 1937-
トムスクの研究家。経済学者・社会学者1965年からKSEに参加、グループのリーダ。1972年ストコヴィッチ山麓で変わった丸い大きな石を発見した (ジョンの石)。長年倒木の調査と研究に取り組む。

Apostolov Leonid Yakovlevich Апостолов Леонид Яковлевич) ロシア
スターヴォロポリの気象学者。1908年7月1日異常光学現象を観測し彗星との関連を結論した。

Astapovich Igor Stanislavovich Астапович Игорь Станиславов) ロシア1908-1976
流星天文学者、物理学博士、キエフ大学教授。1933年ツングースカ物体の飛行経路を計算し発表。1966年大気によるツングースカ物体跳ね返り仮説を発 表。

Asher David  イギリス 1966-
しし座流星群の大出現を予測し的中させた天文学者。NEO(地球軌道に接近する天体)に関する研究が多く、ツングースカ物体とエンケ彗星の関連、おうし座 複合体の研究などがある。

 

Balkovsky.V.S  Балковскии В.С) ロシア
1961年の科学アカデミー隕石委員会の探検に参加。

Belykh S.Ya Белых С.Я) ロシア
天文学者(測地学)。クーリックの1929−30年の探検に参加。

Ben Menahem Ari イスラエル 1928-
ツングースカ異変による地震波の研究に関しての最も優れた研究を行う。地震波から計算した爆発時刻はよく知られている。

Bidiukov Boris Fedorovich Бидюков Борис Федорович) ロシア 1948-
ノホシビルスクの機械工学者、心理学者。1976年のKSEに参加、熱ルミネセンスの研究グループのリーダー。

Boyarkina Alya Petrovna Бояркина Аля Петровна) ロシア 1937-
トムスクの数学者、1961年からKSEに参加。古地磁気、倒木の調査研究に参加。目撃者への聞き取り調査。倒木の方向の数学的処理。ツングースカ爆発に よる爆風の地上への広がりを研究。

   

Chyba Christopher アメリカ 
NASAの物理学者。大きな隕石の、大気中での破壊理論の開発者の一人。小惑星説の支持者。

Chernikov Viktor Moiseevich Черников Виктор Моисеевич) ロシア 1936-
ノボシビルスクの数学者、詩人。詩の著作「古い辻音楽師」。1961年から23回のKSEに参加。

Chushkin Pavel Ivanovich Чушкин Павел Иванович) ロシア 1924-1990
モスクワの気体力学者。ツングースカ爆発の衝撃波を研究した。

Clark Frank Uiklsuort  アメリカ  1847-1931
地球化学者、隕石の化学成分の分析の研究。異変地域の Clark山にその名を残す(クーリック命名)。

Cohen Ernst Julius  オランダ 1869-1944
西ヨーロッパの隕石カタログを作成した科学者。異変地域の Cohen山にその名を残す(クーリック命名)。
 

Cowen. C アメリカ 1919-
物理学者。ツングースカ爆発は反物質説の提案者の一人。

 

Demin Dmitriy Valentinovich Демин Дмитрий Валениинович) ロシア 1933-1998
ノボシビルスクの数学者、生物学者。倒木や木の火傷、目撃者のデータベースの作成。1959年KSEの創設者の一人。KSEの詩と歌を作る。

Dmitriev Alexei Nikolaevich Дмитриев Алексей Николаевич) ロシア 1933-
数学者。ノボシビルスク地質学会の研究員。ツングースカ異変の目撃報告のデータ処理を行う。プラズマ塊説を提案。

Doroshin Igori Konstantinovich Дорошин Игорь Константинович) ロシア 1959-
多くのKSEに参加する。KSE19の隊長。異変地域の木の火傷の調査研究。

Dravent Petr Liulovikovich Драверт Петр Людовикович) ロシア 1879-1945
地理学者、農業アカデミー教授、隕石研究者、詩人。長年ツングースカ異変の研究に取り組んだ。

Drobyshevskiy E.M. Дробышевский.Э.М) ロシア  
ペテルブルグ物理工学学会会員、科学博士。ツングースカ爆発は彗星核の氷から分離した酸素と水素の混合ガスの化学爆発説を提案。

 

Elkin Valeriy Pavlovich Елкин Валерий Павлович) エベンキ 1956-
ワナワラの住人。ツングースカ自然保護区の最初の責任者。

Emelianov Yuriy Mikhailovich Емельянов Юрий Михайлович) ロシア 1939-
モスクワの化学者。1958年科学アカデミー隕石委員会の探検隊に参加。その後多くのKSEに参加。異変地域で異変後、木の成長が著しくなっていることを 発見する。

Epiktetova Liliya Evgenevna Эпиктетова Лилия Евгеньевна) ロシア 1939-
物理学者。1965−74年のツングースカ異変の目撃者への質問の仕事のリーダー。ツングースカ異変目撃報告分析の専門家。目撃報告のカタログ作成に参 加。

 

Farrington Oliver Cumming  アメリカ 1864-1933
アメリカの地質学者。異変地域の最も高いファリントン山にその名を残す(クーリック命名)。

Fast Nina Prlikarpovna Фаст Нина Поликарповна) ロシア 1938-
トムスクの隕石学者、地球物理学者。異変後に多く現れた銀色の雲の研究者。1963年から多くのKSEに参加。

Fast Wilhelm Genrikhovich Фаст Вильгельм Генрихович) ロシア 1936-
トムスクの数学者。ツングースカ異変による森林倒壊のモデリング・数学的研究の専門家。最初の森林倒懐の研究論文執筆者の一人。1960年から多くの KSEに参加。ツングースカ問題の活発な研究者。

Fedynsky Vsevolod Vladimirovich Федынский Всеволод Владимирович) ロシア 1908-1978
モスクワの流星と隕石クレータの研究者。KSEとゾトロフ隊の支援者。

Fesenkov Vasily Grigorevich Фесенков Василий Григорьевич) ロシア 1889-1972
天体物理学者、科学アカデミーの隕石委員会議長。科学的なツングースカ異変の著作多数。1949年、1908年7月の大気の混濁はツングースカ隕石の崩壊 に原因があると発表。彗星説の支持者。

Florensky Kirill Pavlovich Флоренский Кирилл Павлович) ロシア 1915-1982
モスクワの地球化学者。1953年異変地域を視察。1958・61年科学アカデミー隕石委員会のツングースカ探検隊長。

Florensky.V.K  Флоренский В.К) ロシア
1961年科学アカデミー隕石委員会の探検隊に参加。Florensky.K.Pの息 子。

Foschini Luigi    イタリア  1965-
ボロニャ大学の物理学者。1999年のチェコ湖を中心とした調査に参加。大気中での火球の爆発の研究がある。

 

Gallant Roy .A  アメリカ 
大学教授、隕石、クレーター研究家。第3回国際ツングースカ調査(1992年)参加。各地の隕石クレータを訪れ調査している。

Ganapathy Ramachandran インド 1939-
宇宙化学者、隕石の研究者。1983年ツングースカ爆発の論文発表。

Goda Patrick アメリカ 
物理学者。ロスーアラモス研究所で大気中に突入した物体の破壊理論に取り組む。

Golenetskiy Sokrat Pavlovich Голенецкий Сократ Павлович) ロシア 1931-1996
宇宙化学者。長年異変地域での化学変異に取り組み、同僚のカリェスニコフとの異変地域の微粒子の研究からツングースカ物体は彗星と結論した。

Grechko Gergiy Mikhailovich Гречко Георгий Михайлович) ロシア 1931-
宇宙研究者、数理物理学博士。異変後の成層圏に多く発生した銀色の雲を研究。1960年コシエリョフをリーダとするモスクワの探検隊に参加。

Grigoryan Samvel Samvelovich Григорян Самвел Самвелович) ロシア 1930-
モスクワの数学者、国立モスクワ大学機械工学研究所の所長。ツングースカ物体が大気中で破壊したとの研究を行う。

Gyulikh G.P  Гюлих Г.П) ロシア
1927年クーリックの最初のツングースカ探検隊の助手。

 H

Hasegawa Ichirou  (長谷川一郎) 日本 1928-
理学博士、天体軌道論の権威。ツングースカ物体とKagarlyk隕石の関係の可能性を指摘、Ducan Steel らに影響を与えた。

Hills Jack .G   アメリカ
物理学者。ロスーアラモス研究所で、大気中に突入した物体の破壊理論に取り組む。

Ilya Potapovich   Илья Потапович)  エベンキ
ツングースカ異変の目撃者。1927年のクーリックの探検隊の最初の案内人となるが、 深い雪のため現地には入れずに引き返す。

Ivanov Kim Grigorevich Иванов Ким Григорьевич) ロシア 1934-
イルクーツクの科学アカデミーの調査役員。1959年のKSEに参加、ツングースカ異変地で磁気異常を発見した。

Ivanova Galina Mikhailovna Иванова Галина Михайловна) ロシア 1937-
トムスクの地質学者、隕石研究の専門家。1960年から5回のKSEに参加してツングースカ異変地域の沼地の研究に取り組んだ。

 

Jackson Albert.A アメリカ 
物理学者。ミニ・ブラックホール説の提案者の一人。

Junghans Karin  ドイツ
ミュンヘンの人工衛星のエンジニア、流星観測者。1992年のITE3に参加。日本から参加した3人と全日程を同行した。

 

Kandyba Yuriy Lukich Кандыба Юрий Лукич)  ロシア 1937-
鉱山技師、作家。1959年から多くのKSEに参加。クーリックの自叙伝的な資料を多く収集している。ツングースカ異変での人的被害をまとめている。

Karpunin Gennadiy Fedorovich Карпунин Геннадий Федорович) ロシア 1939-1998
ノボシビルスクのエンジニア、詩人、吟遊詩人。1960・61年のKSEに参加。ツングースカの民族伝承の詩を収集し編集した「シベリアの光」がある。

Kazantsev Aleksandr Petrovich Казанцев Александр Петрович) ロシア 1906-
作家。1946年SF小説「爆発」を発表、ツングースカ爆発は異星人の宇宙船事故で核爆発という内容は各方面に大きな影響を与えた。

Kirichenko Lena Vasilevna Кириченко Лена Васильевна) ロシア 1924-1979
モスクワの地球物理学者、放射線の専門家。1960年のKSEに参加、異変地域での放射能の調査研究。

Komori  Chosei (小森長生) 日本 1935-
惑星地質学者、科学ライター。1996年ツングースカ国際会議(ボローニャ)参加。1998年ツングースカを訪れる。
教科書、啓蒙書の著作多数。惑星地質研究会を創立。

Kolesnikov Evgeniy Mikhailovich Колесников Евгений Михайлович) ロシア 1935-
モスクワの地球化学者、同位元素の専門家。1980年から多くのKSEに参加。ピート層から採取したツングースカ物体のものと思われる微粒子の同位元素を 研究し、彗星に類似していることを指摘する。

Konenkin Viktor Grigorevich Коненкин Виктор Григорьевич)  
ワナワラの物理学教師。1962年ニジニャヤ・ツングスカ川沿岸で目撃者から聞き取り調査をして、その結果からツングースカ火球の経路を推測した。

Korobeinikov Viktor Pavlovich Коробейников Виктор Павлович) ロシア 1929-
物理学者。ツングースカ爆発の物理学的な研究の先駆者。ツングースカ異変一連の理論的な論文がある。1973年のKSEに参加。

Korolev Sergei Pavlovich Королев Владимир Алексеевич) ロシア 1906-1966
宇宙船・探査機の設計者。1960年のモスクワ・グループの探検隊の組織・手配に協力。

Koshelev Vladimir Alekseevich Кошелев Владимир Алексеевич) ロシア
モスクワのエンジニア。1960年、モスクワのツングースカ探検隊長。

Kosolapov P.P Косолапов П.П) エベンキ
ワナワラの住人。ツングースカ爆発の目撃者の一人。

Kovalevskii Alexandr Fraetsevich Ковалевский Александр Францевич) ロシア  1930-
トムスクの地球物理学者、数理物理学者。1960年のKSEに参加、ツングースカ異変による地磁気の影響とその他の問題の研究。

Kovaliukh Nikolai Nikolaevich Кщвалюх Николай Николаевич) ウクライナ 1950-
キエフの宇宙化学者。1947-91年のKSEに参加。ツングースカ物体起源の微粒子の研究に取り組む。

Koval Vldimir Ivanovich Коваль Владимир Иванович) ロシア 1945-
モスクワの天文学者、隕石クレーターの研究者。1978年から10回モスクワ・グループの探検隊長。ツングースカ爆発の性質に関する研究。

Kresak Liubor チェコスロバキア 1927-1994
天文学者、長年隕石天文学を研究。1978年ツングースカ物体の経路がエンケ彗星の軌道に似ていることを示し、エンケ彗星破片説を発表。

Krinov Evgeniy Leonidovich Кринов Евгений Леонидович) ロシア 1906-1984
隕石天文学者。ソ連科学アカデミー隕石委員会長。クーリックの1929-30年の探検隊に参加。ツングースカ隕石の総決算といえる「The Tunguska meteorite」を1949年に上梓。ツングースカ異変の代表的な研究者のひとり。多くの隕石の論文がある。

Krivyakova Eleonora Кривякова Элеон)  ロシア
早くからKSEに参加、多くのKSEとITEにも参加。1992年のITE3では、日本人3人にいつも同行して食事を作っていただき、大変お世話になりま した。

Kul Torvald  デンマーク
異常光学現象に対し、デンマークまたはどこかの場所に非常に大きな隕石が落下したのかもしれない、と1908年7月4日発表。

Kulik Leonid Alekxeevich Кулик Леонид Алексеевич) ロシア 1883-1942
ツングースカ事件調査・研究の先駆者。
9月1日にロシアの町Derpt(現・エストニアのTartu)で生まれた。父が早く亡くなると家族はウラルのTroitskに引っ越した。ここで 1903年、Troitskの中等学校で金メダルを得てサンクト・ペテルブルグの森林研究所に入り、ここで強く「左翼思想」の影響をうけ、1年後研究所を 追 い出された。その後兵役につき、その後またTroitskに戻り、採鉱の仕事をしながら鉱物学、植物学、動物学の研究を行った。1911年警察に革命の 容疑で逮捕されたが、有罪は立証されず解放された、しかし警察に監視され続けた。サンクト・ペテルブルグ大学鉱物学部を卒業し、暫く森林管理者として働い て いたが、科学アカデミー会員で有名な地球化学者で放射能の大家であるVernadsky Ivanovich Vladimirのコーカサス山脈・ウラル山脈遠征隊の案内人を務めた。Vernadskyとは以後長い付き合いとなった。このことが転機となって、 1912年8月20日から科学アカデミーの職員となった。これは内務省が以前の政治的罪状から免除するのを助け、当時のロシア帝国の両方の首都モスクワと サンクト・ペテルブルグに住むのを許された。すぐにサンクト・ペテルブルグに引越しピョートル大帝地質・鉱物博物館に勤務した。1917年の10月革命後 の混 乱期はトムスクへ移りトムスク大学で鉱物学を教え、短期間白軍や赤軍に入り、再びトムスク大学に戻った。

1921 年3月、内戦が終わるとサンクト・ペテルブルグから改名したペトログラードに戻り、地質・鉱物博物館に復帰し隕石部の秘書の職を得た。そこを率いていたの は、ほかならぬ友人であり良き指導者であったVernadskyだった。復帰して数日後、人生を変える事件が発生した。Mirovedeniye(宇宙構 造論)誌の編集 者Svyatsky Daniilが1910年7月2日のカレンダーの古いページを見せた。このページの裏には「シベリア生活」紙の記事の復刻が載っており、「1908年巨大 な隕石がシベリア鉄道のFilimonovo駅近くに落下した」ということだった。ツングースカ事件がほとんど忘れられていた1920年代、 Mirovedeniye誌の編集者は事件の情報収集にもっとも熱心で、落下場所の遠征・調査を主張していた。幸いにもその時代、Vernadsky等は 隕石収集の大きな遠征隊の計画を考えていた。科学アカデミーは資金がなかったが学校教育人民委員会のLunacharsky Anatolyのおかげで政府の国家予算から資金が割り当てられ、クーリックをリーダーとする約20名の遠征隊が組織された。

1921 年9月5日に遠征隊は特別列車でモスクワを離れた。クーリックが最初「Filimonovo隕石」と呼んだものだけの捜索ではなかったが、1908年6月 30日に何が起きたのか情報を集めるため中央シベリアのカンスクから始め地元民に約2500のアンケートを配布した。そしてFilimonovo駅を訪れ てそこで隕石の落下がなかったが、巨大隕石がポドカーメンナヤ・ツングースカ川の流域のどこかに落下して、噂に根拠がなかったわけでないことを確かめた。 遠征隊は1922年10月19日にペトログラードに戻るまでに20,000km以上を踏破し隕石を10個集めた。それでもツングースカ川の領域への探検に はもっと大規模な準備が必要であると考えた。すぐにでも新しい遠征に出かけたかったが、科学アカデミーは計画を認めなかった。しかし1925年には地質学 者Obruchev Sergeyの「1908年の巨大Khatanga(ポドカーメンナヤ・ツングースカ川のエベンキ族の名称)隕石の落下場所について」、Suslov Inmokenty Mikhaylovicによる「1908年の巨大隕石の捜索」の論文がMirovedeniye誌に掲載されクーリックの立場を強くするのに貢献した。

1927 年2月クーリックと助手のGuelichはシベリアへ向かってレニングラード(1924年、ペトログラードから改名)から出発した。現地にいちばん近い村 Vanavaraに3月25日に到着し、 Okhchenというエベンキ人を案内人として雇い4月8日に現場へ向かった。4月15日に「死んだ森林の土地」を見た。もっと先に行きたかったが、案内 人は「呪われた土地」に入ることを禁じたシャーマンのお告げを口実に進むことを拒絶した。4月21日にVanavaraに戻ったが、エベンキ人に失望しア ンガラ川沿いに住むロシア人の移民と協定し、更に2人の狩猟家が案内人となった。5月30日に遠征隊はチュルギム川の川口に到着し、基地を置き周囲の調査 を始めた。そして倒れた森林が放射状になっていることを発見した。クーリックは言う「最終的にすべての筋肉を傷めながら調査に没頭したが、食糧不足のため 遠征 隊は戻らなければならなかった。それは凱旋どころか文字通り逃走だった」。ひどくやつれたが、遠征隊は6月24日にVanavaraに戻り、9月にレ ニングラードに帰った。

クー リックの調査報告に1928年2月、Vernadskyは鉱物博物館で臨時会議を招集して科学アカデミーはTunguska隕 石の捜索を続けるべきか議論した。意見は分かれたが巨大隕石の落下可能性は除外できず、クーリックを再び派遣することになった。けれども科学アカデミーは いつもの通り貧困で、更なる融資を政府に求めなければならなかった。1928年4月6日に人民委員会は好意的に応え、クーリックの他2人が出発できるよう にした。

1928 年4月25日第2回遠征隊はVanavaraに到着した。そこで映画のカメラマンStrlukov Nikolay と合流し、5人の現地労働者を雇い3隻の小船を作った。5月21日に遠征隊はポドカーメンナヤ・ツングースカ川から出発した。6月初旬に前年にチュルギム 川口に造った基地に到着し、さらにストイコヴィッチ山麓に小屋を造った。隕石の鉄を発見するため磁気測定を行うつもりであったが、準備に手間取っている間 に食料とビタミン不足に悩まされた。やむなくSytinをモスクワとレニングラードへ行かせ科学アカデミーに追加資金を要求させた。Sytinは資金を獲 得すると救助遠征隊を送るように地元当局に要請した。救助隊を率いるのはクーリックの立場を補強した論文の著者、人類学者のSuslovであった。救助隊 は10月20日にクーリックの小屋に到着した。すでに雪に覆われ凍結していた。彼らはクーリックがSuslovに因んで命名した「スースロフ・クレータ」 で磁気測定をしたが、隕石の兆候はなかった。10月27日、遠征隊は小屋からVanavaraに向った。Vanavaraで2日間休息の後、ケジマに 11月6日に着いたが「鉄人」クーリックを含め全員病気にかかっていて、Sytinは鼻に凍傷を負っていた。それでも彼等は高速列車に乗るため信じられな い体力でTaishet駅へ向 かった。

レ ニングラードに戻ったクーリックは、1929年1月2日に鉱物博物館で開催された会議で調査結果の論文を読み上げた。彼はタイガに見られた丸い孔をツン グースカ隕石の破片によるクレータだと確信していたが、シベリア自然界の専門家はそれはサーモカルストと反論した。これを解決するにはいくつかのクレータ 状のところで基盤岩に達するまで穴を掘ることだったが、これは新しい遠征隊を必要とした。1月5日に科学アカデミーは今年中に新しい遠征隊を送ることに決 定 した。

1929 年2月24日に第3回遠征隊はレニングラードを出発し、4月6日に彼等は仕事場に到着した。今回は隊員の能力は高く、よく準備された遠征隊だった。副隊長 は後にソ連の隕石科学界を率いることになる若き天文学者Krinov Evgenyだった。「スースロフ・クレータ」の水を排水し、沈泥とコケを片付けると出てきたのは根元から折れた切り株だった。これで「スースロフ・ク レータ」が隕石の破片の衝突で出来たという希望は完全に打ち砕かれた。しかしクーリックは諦め切れず底を30m掘ったが隕石の破片はなかった。そこで次の 有望な場所、いわゆる「クランベリー孔」の探査をしたが、ここも隕石の兆候はなかった。
クーリックは希望に満ちた妄想に固執したが、隊員達はそれほど熱狂的でなく、隕石の捜索が行き詰まりになったことを感じていた。クレータを探すため、クー リックと隊員はこの地域の航空写真の必要性を強く思うようになった。
Krinovは近くの南沼こそが隕石の落下地であると主張したが、このような議論は全く聞こうとしなかったばかりか、怒ってKrinovを遠征隊から外し 帰らせた。1929年11月に小屋からVaravaraに戻る途中Krinovは足に凍傷を負い、ケジマの病院で親指を切断され数ヶ月入院した。レニン グラードに戻ったKrinovはクーリックに恨みを抱かず、航空写真撮影を実現させるため熱心に科学アカデミーに働きかけた。
そして飛行機とそのパイロットChukhnovskyは1930年7月にケジマに到着したが、切れ目なく雨が降っていた。ある日クーリックと
Chukhnovsky はケジマを離陸しVanavaraに向かったが土砂降りに遭遇して引き返えした。これでツングースカの倒木地帯の航空写真の撮影は無期限延期された。 1930年秋まで遠征を続ける意味がなくなり、10月に遠征隊はレニングラードに戻った。

科 学界も大衆もツングースカ問題に対する姿勢に変化が始まっていて次の遠征には科学アカデミーも慎重だった。それでもクーリックは航空写真の必要性を訴え続 け、1937年3月14日科学アカデミーの最高会議幹部会は航空写真撮影を決定した。クーリックは船で氾濫しているクラスノヤルスク市に着いた。ようやく 7月に洪水は治まり、航空カメラを装備した水上飛行機がクラスノヤルスクに着いた。飛行機はクーリックをVanavaraへ運び、ポドカーメンナヤ・ツン グースカ川に着水しようとして墜落した。クーリックと同僚達は無事だったが、航空写真の撮影は更に延期された。クーリック達は戻る前に小屋を訪れたが、調 査らしいことは出来なかった。

クー リックの驚異的な粘り強い交渉で、1938年7月に再び水上飛行機を利用できることになった。7月のほぼ全期間カメラマンのPetrovが撮影し、そ れを彼とクーリックが現像処理し、写真地図が作られた。その写真地図には倒木が明瞭に写っていた。その解析からクーリックは論文を発表し、そのなかでツン グースカ爆発は1回ではなく、別の爆発が2〜4回あったことを示した。

1939 年7月、クーリックは少数の隊員を率いて遠征に向かった。南沼の調査が主な目的であった。沼の底には顕著な凸凹があり隕石の存在を示すように思われた。翌 年に更に磁気測定を行い隕石を掘り出す計画になったが、この遠征は行われなかった。

 1941 年6月22日ドイツはソ連に侵攻した。クーリックはすでに57歳であったが、国民義勇軍に志願し入隊した。科学アカデミーの最高会議常任幹部会はクーリッ クを呼び戻そうとしたが、彼は銃後に戻ることを拒否した。結局不十分な装備の義勇軍はドイツ軍に取り囲まれ捕らえられた。クーリックは足に負傷して、最初 Vskhody村で、次にSpas-Demensk町でソ連兵捕虜のための強制収容所で看護士になった。シベリアでの生活がクーリックの身体を強固にした が、収容所の仕事は地獄のようで、発疹チフスに感染し1942年4月14日に死亡した。彼の墓は町の共同墓地にあり、奇跡的に完全な状態を維持している。

ツ ングースカ事件50周年の1958年には、タイガの突っ込むツングースカ大火球とクーリックの肖像の切手がロシアから発行されている。

切手

Kurbatsky Nikolai Petrovich Курбатский Николай Петрович) ロシア 
生物学博士、科学アカデミー・クラスノヤルスク森林研究所の森林火災の研究者。1961年のKSEに参加してツングースカ爆発による森林火災を調査研究し た。

Kurilovich Lyudmila   Курилович Людмила) ロシア
画家。多くのKSE、ITEに参加。1992年のITE3に参加したときには、現地で誕生日を迎えた私に、彼女が数日前に描いたチュルギム滝の絵をプレゼ ントしてくれました。

Kuvshinnikov Valery Mikhailovich Кувшинников Валерий Михайлович
トムスクの設計技師。1959年から多くのKSEに参加。ツングースカ物体の微粒子の探索を行う。

 

La Paz Linkoln アメリカ 1897-1985
天文学者。1948年ツングースカ爆発の反物質説を発表。

Levin Boris Yulevich Левин Борис Юльевич) ロシア 1912-1989
モスクワの天文学者、科学博士。ツングースカ問題に関しての多くの論文がある。

Libby Uillord Frank アメリカ 1908-1980
化学者、1960年ノーベル化学賞受賞。ツングースカ爆発、反物質説の提案者の一人。

Longo Giuseppe イタリア 1930-
宇宙化学者、ボロニャ大学教授。1991年の国際調査に参加し、持ち帰った樹幹円盤の化学的調査と、微粒子の調査を独自に開発した方法でに取り組む。 1999年には爆心地北方のチェコ湖の調査を行う。

Lvov Yuriy Alexeevich Львов Юрий Алексеевич) ロシア 1932-1994
沼沢地の植物学者、生物学博士、トムスク大学教授。水蘚の中から微粒子を見つける方法の開発者。1960年から多くのKSEに参加。KSEの創設者の一 人。

Lychetkan  Лючеткан) エベンキ 
Petrov Ilya Potapovich の通称 、1927年のクーリックの探検隊の最初の案内人。しかし深い雪のため現地には入れずに引き返す。

Lau .V.C アメリカ 1917-
ミシガン大学の物理学者。ツングースカ爆発の性質を研究、雪玉の彗星説を激しく批判、小惑星説の支持者。

 

Malinkin Ya.I Малинкин. Я. И) ロシア
1958・61年の科学アカデミー隕石委員会の探検隊に参加。

Maximov Oleg Georgievich Максимов Олег Георгиевич) ロシア 1938-1972
ノボシビルスクのテレビ局のカメラマンで映画監督。ツングースカ問題の調査・研究を紹介する3本の映画を製作。KSEに1960・68年に参加。

Merrill George Perkins  アメリカ 
地質学者、鉱物学者、隕石研究者。
ストイコヴィチ山から爆心地の環状構造にCircus of Merrill の名を残す(クーリック命名)。

Muldiyarov Emelian Yarushkovich Мульдияров Емельян Ярушкович) ロシア 1941-
トムスクの植物学者。1988年からいくつかのKSEに参加。

 

Naumenko T.N Науменко.Т.Н) ロシア 
政治犯の流刑囚としてケジマでツングースカ火球を目撃する。彼の目撃報告はもっとも豊富な内容とされていて、飛行中のツングースカ物体のスケッチは唯一の もの。

Nekrasov Balery Ivanovich Некрасов Валерий Иванович) ロシア -1995
モスクワの植物学者、生物学博士。樹木の異常成長に関する研究。1961年から多くのKSEに参加。

Nemchinov Ivan Vasilevich Немчинов Иван Васильевич) ロシア 1931-
モスクワの数理物理学博士。大気中でのツングースカ物体の破壊についての研究。

Nesvetailo Valery Dmitrievich Несветайло Валерий Дмитриевич) ロシア 1952-
トムスクの生物学者。1977年から多くのKSEに参加。 森林倒壊の調査を行う。

Nevsky Alexandr Platonovich Невский Александр Платонович) ロシア 1930-
モスクワの数理物理学者。宇宙物体の帯電によるツングースカ爆発説を発表。

Nikolsky Gtnrikh Andreevich Никольский Генрих Андреевич) ロシア 1925-
レニングラードの物理学者、気体力学の専門家。ツングースカ宇宙物体の性質に関する研究。

Nomura Toshirou (野 村敏郎) 日本 1954-
地学教師。早くからツングースカ異変に興味を持ち、1992年の国際ツングースカ調査(ITE3)に参加。金属探知機でツングースカ物体の捜索、GPSで 主要場所の位置測定などを行う。砂金採りは本職並み。
日本流星研究会会員、東亜天文学会会員。

 

Obruchev Sergei Vladimirovich Обручев Сергей Владимирович) ロシア1891-1965
ソ連の有名な地質学者。1924年ワナワラの目撃者に最初のアンケートを実施する。倒木地域の最初の地図を作る。

Ol'khovatov Andrei Yurevich Ольховатов Андрей Юрьевич) ロシア 1960-
モスクワの研究者。ツングースカ爆発・地球物理的(地震)仮説。

 

Paley P.N Палеий.П.Н) ロシア 
化学者。1958・61年の科学アカデミー隕石委員会の探検隊に参加。

Pallas Peter Simon  Паллас Петр Симон) ロシア 1741-1811
博物学者、パラサイトの研究者。異変地域のパラス山にその名を残す(クーリック命名)。

Park Chal アメリカ 1932-
化学者、NASAの研究者、超高層大気の専門家。ツングースカ爆発による窒素酸化物生成で成層圏のオゾン層破壊の調査研究。

Pasechnik Ivan Petrovich Пасечник Иван Петрович) ロシア 1910-1988
物理学者。地震学に関する基本的な論文とツングースカ爆発の物理学的論文がある。

Plekhanov Gennady Fedorovich Плеханов Геннадий Федорович) ロシア 1926-
医師、生物学博士。ツングースカ異変地の松の突然変異を研究。1959-62年のKSE隊長を務める。KSEの創設者の一人。

Rossovskaya Kathy  Pоссовская К)   ロシア
多くのKSE、ITEに参加。ツングースカやシベリアのクレーターの名ガイド。アメリカで Roy .A.Gallant氏の秘書をしていたこともあり英語が堪能、ITEでは 通訳もしていました。個人でツングースカへ行くならお勧めのガイドです。クラスノヤルスク在住。

Poltser Gotlib ドイツ
核物理学者。1967年最初のロシア−ドイツ共同ツングースカ探検隊を組織して行う。1998年ツングースカ隕石の博物展をドイツで開催する。

Pokrovsky Georgy Iosifovich Покровский Георгий Иосифович) ロシア 1912-1987
モスクワの空気力学者。ツングースカ爆発の研究。

 

Romeiko Vitaly Alexandrovich Ромейко Виталий Александрович) ロシア 1946-
モスクワの天文学者。1966年から19の探検隊に参加。ツングースカ異変に伴う銀色雲や異常光学現象の研究。

de Roy Feliks フランス 1883-1942
天文学者。1908年夏の異常光学現象を大気中に宇宙塵の雲が侵入したためと説明した。

 

Salnikova Galina Andreevna Сальникова Галина Андреевна) ロシア
モスクワの有機化学者。1983年から多くのKSEに参加。ツングースカ物体の組成的研究。

Sekanina Zdenek アメリカ 1936-
隕石研究者。ツングースカ物体の軌道を研究して小惑星説を支持する。

Shalimov Valery Pavlovich Шалимов Валерий Павлович) ロシア 1938-
モスクワの物理学者。ツングースカ物体の熱爆発モデルを開発。

Shinitke Bledimir Eduardovich Шнитке Владимир Эдуардович) ロシア 1938-
レニングラードの機械工学者。1965年のKSEに参加して木の火傷の調査に取り組む。

Shinoda Akira (篠田皎) 日本 1935-
早くからツングースカ異変に興味を持ち、1980年に現地を訪れる計画をする。1992年第3回国際ツングースカ調査(ITE3)に参加。1994・98 年にもツングースカを訪れる。星図、星表や日本の気球の歴史の著作あり。
日本流星研究会、東亜天文学会会員。ツングースカ異変研究会代表。

Shishkov Vyacheslav Yakavlevich (Шишков Вячеслав Яковлевич) ロシア 1873-1945
測地学者、作家。シベリア道探検隊長で1911年9月に「東に倒れた」謎めいた地域を通過する。これはツングースカ異変による森林倒壊の明確な証拠とされ ている。

Shults Eduard Olegovich Шульц Эдуард Олегович) ロシア
レニングラードの物理学者、空気力学の専門家。ツングースカ物体の物性を研究。

Shumilova Lyudmila Vasilevna Шумилова Людмила Васильевна) ロシア 1901-1975
トムスク大学の沼沢地の生物学者。1929-30年のクーリックの探検隊に参加。ツングースカ異変地域で最初に湿地の調査を行う。

Shurshalov Lev Vladimirovich Шуршалов Лев Владимирович) ロシア 1944-
モスクワの数学者。ツングースカ爆発で発生した爆風の研究。

Sobotovich Emlen Vladimirovich Соботович Эмлен Владимирович) ウクライナ 1927-
化学者。キエフの地球化学と物理・鉱物の研究所の責任者。ツングースカ物体の化学的論文多数。

Sopronov Nikolai Leonidovich Сапронов Николай Леонидович) ロシア 1937-1998
クラスノヤルスクの地質学者。ツングースカ異変地域の地質を調査研究。

Staniukovich Kirill Petrovich Станюкович Кирилл Петрович) ロシア 1916-1989
モスクワの天文学者、気体力学者、数理物理学博士。ツングースカ爆発は氷の核をもつ彗星説。

Steel Duncan  イギリス 
物理学者。ツングースカ物体とエンケ彗星との関連・おうし座複合体の研究。ツングースカ異変による南極で観測されたオーロラの研究など。

Stoykovich Afanasy Ivanovich  Стойкович Афанасий Иванович) ロシア  1775-1833
Kharkov大学の教授、隕石の研究者。爆心地にいちばん近いストイコヴィチ山にその名を残す(クーリック命名)。

Strukov Nikolai Alexandrovich (Струков Николай Александрович) ロシア
映画撮影技師。1928年クーリック2回目の探検に同行 してツングースカ異変の最初の映画を製作。

Stulov Vlagimir Petrovich Стулов Владимир Петрович) ロシア 1936-
モスクワの機械工学者、弾道学者。 ツングースカ物体の理論的研究。

Suslov Innokenty Mikhailovich Суслов Иннокентий Михайлович) ロシア1893-1968
クラスノヤルスクの北方民族援助委員会議長。1926年ツングースカ物体の飛行と爆発を目撃したエベンキ人の目撃情報を集める。雑誌『世界知識』にエベン キ人の話としてチャムバ川の流域で火の玉が落ちて大破壊が起こったと発表。1928年クーリック隊の救援隊を組織する。「スースロフのじょうご」に名を残 す。

Suvorov Konstantin Ivanovich Суворов Константин Иванович) ロシア
オムスクのエンジニア。1934年9月自主探検隊を組織する。

Suzdalev Karp Ivanovich Суздалев Карп Иванович) ロシア
ケジマの商人、ツングースカ異変地域で仕事をしていてツングースカ異変を目撃する。

Svttsov Vradimir Vladimirovich Светцов Владимир Владимирович) ロシア 1948-
モスクワの物理学者、放射線の専門家。ツングースカ物体・小惑星説の支持者。

Svyatsky Daniil Osipavich Святский Даниил Осипович) ロシア 1881-1940
雑誌「世界知識」の初代編集長。ロシア年代記の調査。1908年の異常光学現象の情報を集める。

Sytimskaya Nadezhda Nikolaevna Сытинская Надежда Николаевна) ロシア 1906-1974
レニングラードの天文学者。ツングースカ物体の弾道飛行を分析。

Sytin Viktor Alexandrovich (Сытин Виктор Александрович) ロシア 1907-1992
狩猟学者、動物学者、作家。1928年クーリック2回目の探検の助手。クーリックの探検についての著作者。

 

Takenaka Chisato (竹中千里) 日本
名古屋大学教授、樹木学者、年輪の専門家。1992年第3回国際ツングースカ調査(ITE3)に向かう途中に偶然遭う。新潟からクラスノヤルスクの宿舎ま で一緒だった。クラスノヤルスクでの年輪の学会にただひとり出席するためとのことであった。若い清楚な美人研究者。ツングースカ異変地 から持ち帰ったゴダイトウヒの樹幹円盤を分析して頂いた。

Temnikov Sergei Fedorovich Темников Сергей Федорович) ロシア 
アマチュアの隕石学者。1929-30年のクーリックの探検隊に参加。

Tomas Pol アメリカ
ウイスコンシン大学の物理学者。大気中に突入する宇宙物体の破壊に関しての専門家。

Trayner Chris イギリス
1992年、第3回国際ツングースカ調査に参加。1994年にも訪れる。1992年は日本人3人と全日程を同行しました。

Tsanle Kevin アメリカ 
物理学者。NASA研究者。大きな隕石の大気中での破壊理論の開発者の一人。ツングースカ物体・小惑星説の支持者。

Tsikulin Mikhil Andreevich Цикулин Михаил Андреевич) ロシア 1936-1976
モスクワの気体力学者。ゾートキンとツングースカ爆発のモデル実験をする。これはツングースカ異変の最初に提案された革新的なモデル。

Tsynbal Maksim Nikolaevich (Цынбал Максим Николаевич) ロシア 1939-
モスクワの化学者。体積爆発説提案者の一人。

Turco Richard Piter アメリカ 1943-
地球物理学者、大気中のエーロゾルの専門家。ツングースカ爆発の化学的爆発理論の研究。ツングースカ爆発による窒素酸化物生成で成層圏のオゾン層破壊の研 究。

 

Vasilyev Nikolai Vladimirovich Васильев Николай Владимирович) ロシア1930-2001
免疫学の医学者、医学部教授、科学アカデミー会員。1959年トムスクの自主総合探検隊(KSE)の創設者の一人。Andreevと伴に国際調査、国際シ ンポジウムを主催。多くのKSE、国際ツングースカ調査(ITE)に参加。ツングースカ問題の多くの著作がある。
2007年に爆心地の北西にある標高451mの山がワシリエフ山と命名された。

Vernadsky Vladimir Ivanovich Вернадский Владимир Иванович) ロシア 1864-1945
地球化学者、ソ連科学アカデミー隕石委員会の最初の議長。クーリックを隊長とする最初の探検隊を組織する。

Vorobev Vladimir Anatolevich Воробьев Владимир Анатольевич) ロシア 1940-
トムスクの機械工学者。1963年から13回KSEに参加して爆発による木の火傷の調査に取り組む。KSEの歌の作詞者。

Voronov Vitaly Innokentevich Воронов Виталий Иннокентьевич) ロシア 1942-
ワナワラの狩猟家。長年ツングースカ隕石調査に取り組む。ワナワラの「ツングースカ隕石」博物館の創設者で責任者。

Voznesensky Arkady Viktorovich Вознесенсенский Аркадий Викторович)  ロシア 1864-1936
イルクーツク気象台長。地震計と自記気圧計の記録からツングースカ物体の爆発した地域を推定した。1924年にツングースカ火球の目撃者のアンケート調査 を行う。1925年ツングースカ物体落下による現象の分析の論文を発表。

Vronsky Boris Ivanovich Вронский Борис Иванович) ロシア 1898-1980
地質学者、国家賞受賞者。1958年の科学アカデミー隕石委員会の探検隊に参加。日本で発行されたツングースカ関連本で唯一まともな「ツングース隕石の 謎」(原題「クーリックの道」)の著者。1959年自主探検。1960年隕石委員会・調査班の隊長。1961年隕石委員会の探検に参加。1969年KSE に参加。土壌からツングースカ物体関連の微粒子の探査に取り組む。

 

Whipple Frensis Jone Uelsh イギリス 1876-1943
気象学者。1908年夏の異常光学現象を研究。ツングースカ爆発をヨーロッパの自記微圧計のデータで分析研究。彗星説の支持者。

 

Yankovsky Koestantin Dmitrievich Янковский Константин Дмитриевич)       ロシア 1904-1983
狩猟学者、生物学者。1929-30年のクーリックの探検隊に参加。謎のヤンコフスキーの石発見(1930年)。1958・60年のKSEに参加。

Yamamoto Ryousaburou (山元龍三郎) 日本  1927-
元京都大学理学部教授。大学院在学中に1954年3月に微気圧計に記録された奇妙な波形に気づき、これがツングースカ爆発による大気波に似ていることを示唆した。

Yavnel Alexandr Alexandrovich Явнель Александр Алексанлрович) ロシア 1918-
モスクワの物理学者、隕石の研究者。ツングースカ物体の物理的研究。

Yeliseyev I.N   ロシア
1961年科学アカデミー隕石委員会の探検隊の事務経理担当。

Yonenobu Hitoshi  (米延仁志) 日本
生物学者。ツングースカ異変地域で採集した樹幹円盤を竹中千里氏と分析研究した。

 

Zaplatin Mihail Aleksandrovich Заплатин Михаил Александрович) ロシア
モスクワのカメラマン。1958年の科学アカデミー隕石委員会の探検隊に参加。

Zhuravlev Viktor Konstantinovich Журавлев Виктор Константинович) ロシア 1939-
ノボシビルスクの数理物理学者。1959年から10回KSEに参加、1966年は隊長を務め。Zigel と共著のツングースカ調査の歴史の本を書く(「ツングースカの驚異」)。Dmitriev とツングースカ物体・太陽からのプラズマ塊説を発表。KSEの創設者の一人。

Zigel Feliks Yurevich Зигель Феликс Юрьевич) ロシア 1920-1988
モスクワの天文学者、科学解説者。「ツングースカの驚異」の共著者。

Zlobin Andrei Evgenevich Злобин Андрей Евгеньевич) ロシア 1960-
機械工学者、数学者。1988年のKSEに参加。ツングースカ現象の電磁流体でのアプローチの開発者。ツングースカ物体・超電導隕石説を発表。

Zolotv Alexei Vasilevich Золотов Алексей Васильевич) ロシア 1926-1995
地球物理学者。1959年から多くの探検隊長。ツングースカ異変地域の放射能に関する多くの論文があり、宇宙船による核爆発説の支持者。

Zotkin Igori Timofeevich Зоткин Игорь Тимофеевич) ロシア 1929-
モスクワの天文学者、科学アカデミーの隕石委員会の会員。ツングースカ異変現象の代表的な研究者のひとり。ツングースカ物体の経路を決定するために目撃報 告の分析と爆発の模型実験を行う。異常光学現象を研究して多くの論文がある。1958・59年の調査に参加。

KSE

KSEКомплексной Самодеятельной Экспедиции 総合自主探検隊
1958年ロシア・トム スクの学生街で専門学校の若い科学労働者、大学生、大学院生からなる隕石に興味を持つグループができた。1959年彼らは伝説となっているツングースカ隕 石の落下地への旅行を決め、実際に異変地域を見てできるだけの科学的な調査を行うという計画を立案した。初期段階ではトムスク医科大学のグループが参加し たが、すぐに隣接しているトムスク大学でも同様な調査隊を組織しているということが分かった。そこでこの2つのグループは合同で調査隊を組織することと なった。1958年11月、2つのグループの代表者会議が学生寮で行われKSEが発足した。
隊長には全員一致で、当時32歳のトムスク医科大学ベータトロン研究室の技師であるプレハノフ
(Plekhanov G.F)が選出された。1959年4月末にKSE1の12人の隊員を選定し、6月30日にトムスクを出発し、約1ヶ月後にストイコヴェッチ山麓のクーリッ クの小屋に到着した。
調査の目的はカザンツェフの原子力宇宙船説に刺激を受けこの証拠を探すことだった。ほかに「乾いた川」の捜索、事件後 エベンキ人が放射能による影響で死亡したとの噂を確かめることなどだった。しかし実際に調査をしてみると死亡したエベンキ人の骨からはストロンチウムは検 出されず、異変地域では強い放射能は検出されず、次第に原子力宇宙船説に否定的になった。
1960年には70人以上の隊員でKSE2が行われ、以後も続いている。


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