現 象>異常な火傷> Home 現象 名所案内 人名リスト 書籍 珍 説奇説 類似現象 隕石亭雉子星 流星音 ツングースカ爆発による植物の異常な火傷 |
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1927
年にツングースカ事件の中心領域に初めて入ったクーリックの発見で、放射状の倒木、電信柱状に立ったままの木と並んで重要な「異常な火傷」があります。
「異常な火傷」の跡は倒木と生き残った木の両方で発見されました。「山火事の痕跡とは非常に異なる特徴的な痕跡があり、この火傷は低木、コケ、生き残った
木、倒木と、立ったままの木ともに良く保存されている」とクーリックは記しました。事件による山火事は爆心地の東と南東方向の森林で発生しましたが、この
「異常な火傷」の跡は爆心地から10〜15kmの遠方の至るところで見られました。つまり山火事が無かった場所にも火傷があり、火傷は火事のためではなかったのです。 発光火傷の跡はツングースカ大災害の他の影響よりもはるかに早く回復しました。倒れた木々が腐敗し、若木が成長するには数10年必要とされましたが、爆風や 山火事から生き残った木々は火傷の損傷をはるかに早く回復させました。1920年代後期、クーリックの2回目の遠征のころまでは隊員たちに容易に認められ た「鳥のかぎづめ」(折れた小枝の焦げた破面)は1958年の科学アカデミー隕石委員会の遠征隊と1959年のKSE-1(1回目の総合自主探検隊)の隊 員達には発見できませんでした。(1960年に偶然に再び発見された) そ れではこの「閃光」、ツングースカ爆発で放射された全エネルギーのうち可視光と赤外線の割合はどのくらいだろうか。そのためには火傷の跡を発見することで した。1961年KSE隊員 Igor Zenkin と Anatoly Ilyin は異常な損傷を受けた木の枝を注意深く研究しました。それらの上部に広がった長いリボン状の割れ目は木の樹脂で満たされていて、年輪の数から判断するとそ の形成層は1908年に損傷し、その後傷は治り始めましたが「樹脂の傷跡」を残しました。これらの跡が全て爆心の方向に面していることに2人は注目しまし た。しかし、火傷の跡を見つけることはツングースカ調査において恐らくもっとも危険で困難な作業でした。爆心に直面した開けた地形で成長した約 100〜200歳のカラマツを選び、調査員は自家製の登山用具を足につけて高さ20mに達する木の先端までよじ登った。そして枝々を調べて「樹脂の傷跡」 を捜し、発見するとその座標、すなわちそば所の高さ、方角、枝と垂線の角度、その枝の上に現れえいる全てのデータを測定しました。そして枝は切り離され、 投げ下ろされました。この過程を何100回も繰り返したのです。枝の損傷が火傷だったことを立証するためサンプルはトムスク、ノボシビルスク、モスクワの 良い設備がある研究所に送られ、顕微鏡で枝の年齢とその損傷を立証し、いくつか追加の要素が測定されました。このようにして400本以上のカラマツ、そし て約1800のサンプルを集め処理しました。 林学の専門家達は異常な損傷の原因は形成層の局部が65℃以上に加熱されたことによると結論しました。(*2) KSEの創設者の一人Dmitry Demin とVladimir Vorobyvは Zenkin と Ilyin の結果を再検討しました。樹木は成長の過程でしばしば変化するので「樹脂の傷跡」は1908年の閃光の方向と今日では同じ面でないかもしれないと考えたの です。今日までに正確に閃光の特性を保持しているのは細い枝ではなく、太い枝であるとの考えでデータを選別し処理しました。その結果、閃光の中心は高度 7kmでepfast の東2kmであると決定しました。これは Jon.F.Anfinogenov により決定されたツングースカ物体の軌道上(東から西に飛行した)にあります。 ツングースカ爆発の閃光により植物が火傷を負った The Tunguska Meteorite ツングースカ爆発の閃光により植物が火傷を負った
こ の分布図は奇妙に見えます。閃光源が球形であれば(普通の核爆発では)このような分布にならないでしょう。平面の熱傷区域の形状、コンピュータ断層撮影法 を使ってKSEの研究者達は閃光源の形状を決定しようとしました。Stepan Razinが得た結果は、先端が凸面、後端が凹面というキノコのかさのような形状でした。 ツ ングースカ爆発に伴う閃光はかなりの部分解決されたように思われましたが、隕石の専門家達からは支持されませんでした。けれど後にはツングースカ研究者の ほとんどが、爆発による総エネルギーと光エネルギーの割合は少なくとも1/10以上と同意されました。新たな困難が発生していました。火傷の区域が以前考 えられていたよりもはるかに不規則であることが判明し、ひどく損傷したカラマツの近くで、枝がまったく健全でまったく火傷の徴候がないものもあった。さら に記録を捜すと1929年2回目のクーリックの遠征隊に参加した天文学者のクリノフ(E.Krinov)は爆心地からそう 遠くない場所で、火傷はもちろん、他の損傷もほとんどを受けていない木々の一群を発見しました。「小さな木立が生き残る方法は理解できない。この周辺には 爆風を保護するものがない」と記しました。(*4) 爆発から数10年がたって多くの損傷の跡が消滅したことを考慮しても、木々が相互に遮蔽したというだ けで全ての場合を説明することは困難です。これは閃光がかなり不均一であったということなのでしょうか。タイガで典型的な濃霧が閃光から保護した、という 考えもありますが、爆風からは逃れられません。閃光は単純な火の玉よりはむしろ多数の強力な「熱戦」に似ていた、との考えもあります。 コロベイニコフ(Korobeinikov.V.P)によると光放射を最大に受けた地点では57cal/cu のエネルギーと推定しています。(*5) *1 The leveled forest and burnt vegetation in the region of the Tunguska meteorite fall *3 About the light burn of trees in the region of the Tunguska meteorite explosion. *5 The Tunguska Meteorite problem today |