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  ツングースカ爆発による植物の異常な火傷                                              


 

1927 年にツングースカ事件の中心領域に初めて入ったクーリックの発見で、放射状の倒木、電信柱状に立ったままの木と並んで重要な「異常な火傷」があります。 「異常な火傷」の跡は倒木と生き残った木の両方で発見されました。「山火事の痕跡とは非常に異なる特徴的な痕跡があり、この火傷は低木、コケ、生き残った 木、倒木と、立ったままの木ともに良く保存されている」とクーリックは記しました。事件による山火事は爆心地の東と南東方向の森林で発生しましたが、この 「異常な火傷」の跡は爆心地から10〜15kmの遠方の至るところで見られました。つまり山火事が無かった場所にも火傷があり、火傷は火事のためではなかったのです。
熱 に敏感なカバの木、ポプラ、ハンノキ、そして濃針葉樹の松、モミ、ヒマラヤ杉はほとんど枯れ、生き残った大部分は耐火性のあるカラマツでした。Igor Doroshin は激しい山火事でもタイガのモミやヒマラヤ杉の木々は決して完全にはだめにならないことを正確に注目しました。「火」は均一に森林に作用するが、おそらく 「閃光」は決してそのような結果を作り出すことはないと述べました。クーリックはもちろん火傷が「閃光」によるものだとは考えませんでした、彼の時代には そのような考えは存在しませんでした。それは最初の核爆発の後で起きた考えで、強烈な光の放射が核爆発のもっとも顕著な要素であると証明されてからです。 クーリックは火傷の原因をあくまでも隕石が分裂して衝突したときの熱との仮説で説明しました。彼は木々の表面の火傷の跡を綿密には調べませんでしたが、少 なくとも痕跡は十分に詳細に記述しました。そのときはまだ比較的火傷の跡は新鮮でしたので重要な記録となっています。(*1)

発光火傷の跡はツングースカ大災害の他の影響よりもはるかに早く回復しました。倒れた木々が腐敗し、若木が成長するには数10年必要とされましたが、爆風や 山火事から生き残った木々は火傷の損傷をはるかに早く回復させました。1920年代後期、クーリックの2回目の遠征のころまでは隊員たちに容易に認められ た「鳥のかぎづめ」(折れた小枝の焦げた破面)は1958年の科学アカデミー隕石委員会の遠征隊と1959年のKSE-1(1回目の総合自主探検隊)の隊 員達には発見できませんでした。(1960年に偶然に再び発見された) 

そ れではこの「閃光」、ツングースカ爆発で放射された全エネルギーのうち可視光と赤外線の割合はどのくらいだろうか。そのためには火傷の跡を発見することで した。1961年KSE隊員 Igor Zenkin と Anatoly Ilyin は異常な損傷を受けた木の枝を注意深く研究しました。それらの上部に広がった長いリボン状の割れ目は木の樹脂で満たされていて、年輪の数から判断するとそ の形成層は1908年に損傷し、その後傷は治り始めましたが「樹脂の傷跡」を残しました。これらの跡が全て爆心の方向に面していることに2人は注目しまし た。しかし、火傷の跡を見つけることはツングースカ調査において恐らくもっとも危険で困難な作業でした。爆心に直面した開けた地形で成長した約 100〜200歳のカラマツを選び、調査員は自家製の登山用具を足につけて高さ20mに達する木の先端までよじ登った。そして枝々を調べて「樹脂の傷跡」 を捜し、発見するとその座標、すなわちそば所の高さ、方角、枝と垂線の角度、その枝の上に現れえいる全てのデータを測定しました。そして枝は切り離され、 投げ下ろされました。この過程を何100回も繰り返したのです。枝の損傷が火傷だったことを立証するためサンプルはトムスク、ノボシビルスク、モスクワの 良い設備がある研究所に送られ、顕微鏡で枝の年齢とその損傷を立証し、いくつか追加の要素が測定されました。このようにして400本以上のカラマツ、そし て約1800のサンプルを集め処理しました。

林学の専門家達は異常な損傷の原因は形成層の局部が65℃以上に加熱されたことによると結論しました。(*2)
また特に軽い火傷が発見された区域は森林がなぎ倒された区域(ツングースカバタフライ)よりも非常に狭いということが判りました。18km×12kmの卵に似た形状をして、その対称軸はほぼ正確に東−西になります。同じく軽い火傷の跡を
Igor Zenkin と Anatoly Ilyin は、この資料が閃光の源の座標と、エネルギーを見積もることが出来ると考えました。(*3) この目的のためにもっともはっきりした火傷の跡がある枝を選 択し、その結果閃光源の位置が決定されました。それはFast が決定した爆心地(epifast) の南東、約2kmとなりました。つまり、爆発の中心と閃光の中心が同時発生ではなかったということです。しかし少なくともこの2つの中心はFast が最初に決定したツングースカ物体の飛行経路上にあります。

KSEの創設者の一人Dmitry Demin とVladimir Vorobyvは Zenkin と Ilyin の結果を再検討しました。樹木は成長の過程でしばしば変化するので「樹脂の傷跡」は1908年の閃光の方向と今日では同じ面でないかもしれないと考えたの です。今日までに正確に閃光の特性を保持しているのは細い枝ではなく、太い枝であるとの考えでデータを選別し処理しました。その結果、閃光の中心は高度 7kmでepfast の東2kmであると決定しました。これは Jon.F.Anfinogenov により決定されたツングースカ物体の軌道上(東から西に飛行した)にあります。

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ツングースカ爆発の閃光により植物が火傷を負った
爆心地付近の滑らかな概略図

The Tunguska Meteorite
Vasilyev.N.V

A Space Phenomenon of the Summer of 1908

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ツングースカ爆発の閃光により植物が火傷を負った
爆心地付近の真の(滑らかにしていない)概略図

 

 

 

 


 

 

こ の分布図は奇妙に見えます。閃光源が球形であれば(普通の核爆発では)このような分布にならないでしょう。平面の熱傷区域の形状、コンピュータ断層撮影法 を使ってKSEの研究者達は閃光源の形状を決定しようとしました。Stepan Razinが得た結果は、先端が凸面、後端が凹面というキノコのかさのような形状でした。

ツ ングースカ爆発に伴う閃光はかなりの部分解決されたように思われましたが、隕石の専門家達からは支持されませんでした。けれど後にはツングースカ研究者の ほとんどが、爆発による総エネルギーと光エネルギーの割合は少なくとも1/10以上と同意されました。新たな困難が発生していました。火傷の区域が以前考 えられていたよりもはるかに不規則であることが判明し、ひどく損傷したカラマツの近くで、枝がまったく健全でまったく火傷の徴候がないものもあった。さら に記録を捜すと1929年2回目のクーリックの遠征隊に参加した天文学者のクリノフ(E.Krinov)は爆心地からそう 遠くない場所で、火傷はもちろん、他の損傷もほとんどを受けていない木々の一群を発見しました。「小さな木立が生き残る方法は理解できない。この周辺には 爆風を保護するものがない」と記しました。(*4) 爆発から数10年がたって多くの損傷の跡が消滅したことを考慮しても、木々が相互に遮蔽したというだ けで全ての場合を説明することは困難です。これは閃光がかなり不均一であったということなのでしょうか。タイガで典型的な濃霧が閃光から保護した、という 考えもありますが、爆風からは逃れられません。閃光は単純な火の玉よりはむしろ多数の強力な「熱戦」に似ていた、との考えもあります。

 コロベイニコフ(Korobeinikov.V.P)によると光放射を最大に受けた地点では57cal/cu のエネルギーと推定しています。(*5) 

*1 The leveled forest and burnt vegetation in the region of the Tunguska meteorite fall
           Kulik.L.A    Problems of Meteoritics,
*2   The program "Thermal Burn" was performed under the supervision of Anatoly Ilyin

*3   About the light burn of trees in the region of the Tunguska meteorite explosion. 
         Zenkin.G.M & Ilyin.A.G  Meteoritika,Vol.24,1964
*4    The Tunguska Meteorite 
        Krinov.E.L 1949

*5 The Tunguska Meteorite problem today
           Vasilyev.N.V   Planet.Space Sci., Vol.46 No.2/3 (1998)

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