ツングース
カ異変の場所に多くの倒木があるらしいという情報はクーリック(L.A.Kulik)が現地入りする1927年以前から有りました。 1921
年にシベリア各地の隕石を調査したクーリックは実際にツングースカへ行く遠征を科学アカデミーに何回も申請しましたが、目撃者の話の「輝く物体」の飛行と
爆発は科学的な価値がないように思われ、多くの科学者は懐疑的な反応でクーリックの申請を拒絶し続けました。しかし1925年地質学者のオブルチェフ(S.V.Obruchev)は1924年にポドカーメンナヤ・ツングースカ川の流域を調査して、この地方に住
むエベンキ人の話としてワナワラ(Vanavara)からそう遠くないところで面積約700km^2にわたって森林がことごとく倒れていることをThe Mibovedeniye誌に「1908年の巨大隕石の落下場所について」と報告しま
した。(*1)
また人類学者でシベリアでのソ連政権の代表だったスースロフ(I.M.Suslov)は1926年のエベンキ人の大会に出席し、話を聞いた結果をまとめ、森林火災や森林倒伏の地図も作成しThe Mibovedeniye誌に発表しました。これらの論文の後押しと、クーリックの師Vladimiir Vernadsky がフランス滞在から帰国したことによりポドカーメンナヤ・ツングースカ川流域の実地調査が行われることになりました。 1927
年4月13日、クーリックと助手のギューリッヒ(Oswald
Guelich)はエベンキ人の案内人Okhchenとともに倒木地帯に達しました。クーリックはこの場面を「山の上の大きな木々は倒れ密集して並んで、
一方谷では葦のように破壊されたタイガの巨大な根元と幹の両方を見ることができた。倒木の頂点は我々の方に向いていた。我々は約20年前に荒れ狂った北の
超大暴風の方へ行こうとしていた」。(*2) 4月15日クーリックは近くの山に登り初めて信じられないような「死んだ森林の土地」を見て、日記に
記しました「私は小旅行から受けた混沌とした印象を整理することが出来ない。私にこの巨大規模の並外れた隕石落下の全体像を想像できない。ここはとても丘
が多く、ほとんど山地の場所で北の地平線は数10km背後に広がっている。遠い山の間を流れるフシマ川は0.5mの雪に覆われている。そして我々の観測点
から生きている森林の徴候はひとつも見えない。すべて倒され焦がされたこの死の領域の周囲に若い(20才より若い)木々が太陽に向かって成長する努力が現
れている。直径10〜20vershok(約45〜90cm)、(最大1m)の巨木が細い葦のように2つに折れ、先端は数m先の南に投げ出されているのは酷い」。 案
内人Okhchenはシャーマンの言う呪われた土地へさらに進むことを拒否したためクーリックはいったんVanavaraに戻り、アンガラ川沿いに住むロ
シア人の移民と協定することにしました。そして再び倒木地帯に入りさらに進むと山に囲まれた巨大な窪地に入り、この窪地の中で倒木の方向を調査し、驚くこ
とに全森林が放射状に倒れているのを発見しました。この発見はツングースカ研究の全ての試みの始まりでした。クーリックは巨大隕石がこの場所に落下したと
確信しました。彼は広大な地域(直径約8km)で木が焦げていること、放射状に倒れた森林の中心部に枝がなく電信柱のような木がまっすぐに立っていること
も発見しました。しかしクーリックは中心部の立ったままの木の本当の意味を理解せず、「波動干渉」によって起こされたと説明しました。
クーリックの現地調査でも森林倒伏の地域は丸い形をしていると想像されていました。1958年のフロレンスキー(K.P.Florenskiy)を隊長とする遠征隊の隊員達は放射状に倒れた森林の特徴を完全に記録し、全員がそれ以上の調査の必要はないと考えました。「これからは倒木のことは忘れ、隕石物質をさがそう。もし大きな破片が無いなら我々は微細粒子を探す」、と。 し
かし1960年KSE-2の隊員達が組織的な方法で倒伏された森林領域を調査し始めるとすぐに「説明するのが難しい」些細なことが現れ始めました。木々は
放射状に横たわっているが、倒伏された森林領域の形は奇妙に見えたのです。この地域は3つの区域、中心部で立っている木々(電信柱状)、大部分倒れている
(約500km^2)、そして放射状に部分的に倒された木々の領域、に分けられるがそれは通常の隕石落下と違い楕円形ではありませんでした。
フ
ロレンスキーは倒伏された森林地域の正確な外形が決定されてもツングースカ物体に関する新しい情報は得られないと考えており、倒木の調査には消極的でし
た。しかし数学者でKSE隊員のWilhelm
Fastが管理する「木の測定」には120名が参加し1960年から1979年まで毎年夏に行われました。彼等は50m×50mの調査区域を
1000箇所以上割付けて、その区域内の100〜400本の倒木の要素を測定しました。それ以前のツングースカ事件の調査者達は森林倒伏地帯は爆心地から
4km以上は広がらないと考えていました、しかし「木の測定」隊は北東へ移動し、驚くべきことに森林倒伏が爆心地から北東方向へ36kmに達していまし
た。それは他の隊員達が境界を測定するのを助け、結果は一歩一歩地図上に記入され、驚きあきれた科学者の目の前にツングースカ事件によって荒廃された地域
の本当の形状が現れました。全翼長70km、胴体長55kmの巨大な鷲の翼のように羽を広げた蝶に似ていました。それは面積2150km^2にもなり、蝶
が西北西に向って羽を広げているように見えるので、ツン
グースカ・バタフライと呼ばれるようになりました。蝶の胴体がツングースカ物体の飛行経路で、頭の部分が爆心点になります。
この蝶の形は超音速で大気に突入したツングースカ物体による弾道衝撃波と、空中大爆発の衝撃波が組み合わさった結果であると考えられ、これを1961年の調査
にも参加したゾートキン(I.T.Zotkin)は模型実験で確かめました。
ゾートキ
ンの歴史的な実験 (1965年) (*3)
彼は樹幹に 見立てた長さ3cm、弾性の無い曲がりやすいワイヤーと、それに円筒状のプラスチックを被せて枝葉にしま
した。これを5cm間隔で並べて森林模型にして、その上に傾斜した爆薬の紐をはり、下端には爆薬の塊をつけて
爆発させました。爆薬の紐の傾斜や、下端の爆薬の高さを変えて実験した結果を実際の森林の倒伏状態と比較して、
ツングースカ物体の経路を方位角105°、傾斜角30°と推定しました。この結果は森林倒伏とツングースカ物体の爆発の関係を良く示して
いるように思われ、ツングースカ・バタフライの生成は解明されたように考えられました。しかし後にこの結果は誤りであったことが判りました……。
多くの樹木 は根こそぎ倒れましたが、それはこの地域が永久凍土層のため根が深く張れないためと、沼地が多いからなので しょう。 しかし比較的乾
いた土地では大木が根元付近からへし折 られていますから、その衝撃の大きさが判ります。 1961年 の調査では立木(カラマツ)を実際にウインチで根こそぎ倒し、動力計でどのくらいの力が必要か調べられています。
(*4) 乾いた土地2ヶ所、沼地と1908年の異変で枯れた枝が堆積している場所のそれぞれ1ヶ所で、幹の直径が15cm、20cm、25cm、30cmの木の、根こそぎ倒すためのモーメントが測定されました。
その結果 は、モーメントは乾いた土地、沼地、枯れ枝の堆積地の順に大きく、幹の直径の2乗に比例していることが確かめられ ました。
倒 木の方向も測定されました。同じ地点でも倒木の方向にはばらつきがありましたが、夫々の地点で約100本の倒
木の方位角のヒストグラムはほぼ一致しました。それらのデータからファスト(V.G.Fast)が爆心地点を求めました。
倒 木は現在でもチュルギム川滝の東方、パラス山に続く尾根の南側斜面には大規模な倒木の跡が見られます。またファリントン山の近くには倒木の根が不思議な姿で残っています。
*1
The Place Where the Great Meteorite of 1908 Fell
Obruchev.S.V Mirovedenie.Vol 14
No.1 1925 *2 In Search of the Tunguska Miracle Kulik.L.A Krasnoyarsky Rabochy, 1927
*3 SIMULATION OF THE EXPLOSION OF THE TUNGUS METEORITE
Zotkin.I.T &
Tsikulin.M.A SOVIET PHYSICS-DOKLADY Vol.11 No.3
1966
*4 PRELIMINARY RESULTS FROM THE 1961 COMBINED TUNGUSKA METEORITE
EXPEDITION
Flornskiy.K.P Meteorites
Vol.23 1963
Copyright (C) 2002-2011 Kamimura,All right
reserved.
|