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  ツングースカの宇宙船を参考に?                                            



1907 年1月12日、1940年代からソ連の宇宙開発の指揮をとったセルゲイ・コロリョフ (Sergey.P.Korolev) がウクライナのキエフの近くで誕生しました。
1926年7月モスクワ高等技術大学に入り、航空機エンジニアに道を歩み始めました。モスクワには民間のロケット研究団体・GIRDがありロケットエンジ ンの開発を進めていました。このリーダだったフリードリヒ・ツァンダー (Fridrihs Zander) とコロリョフは同じ中央空気水力学研究所で一緒に仕事をしていました。それで、すぐにコロリョフはGIRD に入り航空機よりもロケットに惹かれるようになりました。

し かし1938年6月、モスクワのアパートで突然逮捕され、シベリアの強制収容所に入れられました。彼が逮捕されたのは、捕らえれれた多くの科学者、技術者 と同様に同僚や友人からの虚偽の陳述や通報で犯罪者にでっち上げられたのでした。大学時代の師であり、多くの航空機を設計したアンドレーイ・ツボレフ (Andrei. N.Tupolev) の嘆願で、ソヴィエト最高会議幹部会は彼を解放し、罪を抹消させる決定をしました。強制収容所の生活は厳しくコロリョフは壊血病にかかり、体はむくみ、歯 は抜けて半死状態でした。
それでもコロリョフは
1945年の春にモ スクワに戻り、その夏には赤軍の将校に任命され、秋にはドイツへ行きロケット兵器V-2の調査を行いました。そしてドイツから連れてこられた技術者ととも にV-2のコピーロケットを製造する主任設計技師に任命され、以後、ソ連のロケット開発の中心として存在感を増してゆきました。そして大陸間弾道ミサイル や世界初の人工衛星スプートニク1号を成功させました。

こ の頃から彼はKSEの遠征に非常に興味を持つようになっていました。カザンツェフのツングースカ物体・宇宙船爆発説にいくらか注目する価値があると考えた のでした。世界初の有人衛星となるヴォストークの開発が進んでいた時で、すでにコロリョフは惑星間宇宙旅行を考えていました。もしカザンツェフの仮説が正 しく宇宙船の機器類の残骸が発見されたなら、その設計の中には地球のロケット工学に応用できるかもしれない要素があるかもしれないと考えたのです。
コロリョフは巨大隕石にはあまり興味を示しませんでしたが、実際に宇宙船の残骸を発見するためのチームをツングースカ大災害地域に送ることにしました。そ れは科学者と技術者15名のチームで、宇宙船の残骸を発見するための装置を用意し、特別に装備されたヘリコプターでツングースカへ向かいました。

それで、なにか発見できたのでしょうか?
発見し、その技術の応用で生まれたヴォストーク1号でガガーリン (Yury Gagarin) 少佐が宇宙へ向かった、というような噂もありますが、まったく違うでしょうね。しかしコロリョフのような大物技術者でさえカザンツェフのSF小説を無視で きなかったことに驚きます。


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