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  レーニン賞を拒絶したプレハノフ                                            



1959 年のKSE-1の遠征の後、KSEの代表者プレハノフは遠征の結果を他の科学者と議論するためモ スクワとレニングラードへ行きました。KSE-1を支援してくれたKMET(隕石委員会)のクリノフ等隕石の専門家たちは彼を歓迎しました、KSEの情報 に関心を示したものの、プレハノフの最大の関心事は放射能でした。プレハノフは2回スターリン賞を受賞していた Igor Tamm に会うことができ、Tamm はツングースカでの放射能測定に興味を示し原子物理学の論文を読むようプレハノフに勧め、原子物理学者を紹介してくれました。

一 旦トムスクに戻って、再びモスクワを訪れたプレハノフは原子力研究所で熱核融合の理論的研究をしている科学アカデミー会員の Mikhail Leontovich の研究会に出席しました。当時原子力を研究している学者達にはソ連権力者達は監視を強め、干渉することもありました。しかし Leontovich には決して干渉しませんでした。それは彼があらゆる分野の高名な人々を招集できることを知っていたからだとされています。
Leontovich はKSEの行動を賞賛し、すぐに科学アカデミーに電話をしてシベリア支部に10万ルーブルを次のKSEの遠征に割り当てるように指示しました。その資金援助を受け、1960年夏には73人が参 加し2カ月にわたってKSE-2が行われました。
しかし1960年秋には科学アカデミー・シベリア支部はツングースカの新しい遠征隊を支援するのを止める 決定をしました。KSE-2は大規模な遠征隊だったのにもかかわらず、確認できたことはツングースカ物体の物質が無いということだったので、支援する意味 が無いと考えたのでしょう。KSEの指導者達は財政援助なしにどうやって研究を前進させるかについて考えました。結局科学アカデミー隕石委員会と共同で、 ツングースカ物体が隕石という仮説を証明をするしかないというものでした。隕石委員会 (KMET) のフローレンスキー( Kirill Florensky) と同僚たちはカザンツェフの宇宙船仮説を苦々しく思い、ツングースカ物体が自然物だとはっきりさせ、地球外宇宙船の幽霊がツングースカに訪れないようにし なければならないと思っていました。それでフローレンスキーはプレハノフの提案を受け入れ、次の遠征はKMETとKSEの連帯で行うことにしました。

そ の1961年の合同遠征隊にはKMETから29人、KSEから51人が参加し6月中旬から10月上旬まで調査を続けました。この遠征のフローレンスキーの 最終報告書は1963年まで発表されませんでしたが、彼が遠征から帰ると、彼のインタビューと記事が主な新聞に載り、もはやツングースカの謎は存在しない と告知し続けました。ツングースカ物体の実体は既に発見されていた−それは彗星である、破片が無いのだから−と、繰り返し表明しました。

これに対しKSEの指導者達はフローレンスキーの主張に反論し、彼に多くの怒りを含んだ手紙を送りつけました。フローレンスキーが個人的にツングースカ問題のどんな最終回答を与えるのも時期尚早であると認めていたことを指摘しました。
彼はこの反論に沈黙したままでした。フローレンスキーのこの心変わりは、彼の生い立ちにも関係すると言われています。彼の父 Pavel Florensky は有名な哲学者・神学者であったものの、スターリンの秘密警察に1933年に逮捕され、1937年に処刑されました。彼の父が公式に「人民の敵」とみなさ れたのでフローレンスキーは大学に入ることも出来ませんでした。そして科学アカデミーの隕石委員会に入れたものの常に周囲を
極端に注 意しながらの生活でした。研究結果は上司に報告しなければなりませんが、その上司の期待にしかるべき配慮しなければならなかったのでしょう。その時の隕石 委員会議長はフェセンコフ( Vasily Fesenkov)で副議長クリノフとの1960年の共著で彗星説を展開していました。

1962 年の初めに、地球物理学者で原子物理学者の Lena Kirichenko はKSEの指導者達に1961年の遠征隊が最終的な事実を立証したと宣言するための公式な会議の準備が進められていると知らせました。そしてこの会議でツ ングースカ問題の解決に尽力した隕石委員会のフェセンコフ、フローレンスキー、クリノフに「レーニン賞」が贈呈されるだろう、と伝えました。

KSE の集会で、もし「レーニン賞」の贈呈が実現したら、ツングースカ問題は公式に解決されたとされるだろう − 彗星がタイガを破壊した − そして、KSEがツン グースカ問題を更に研究することも断念しなければならないと全員が考えました。プレハノフはすぐにモスクワに行き、隕石委員会のクリノフを訪ねました。

ク リノフは「フェセンコフがツングースカ問題を彗星の性質から立証し解決した一群の科学者に対し「レーニン賞」を贈呈する計画を公表する予定だ。彼は隕石委 員会の代表としてフローレンスキーと私を名簿に入れる予定で、あなた自身もトムスクの遠征隊の代表として含まれる。だから心配しなくていい、フェセンコフ は問題解決へのあなたの大きな貢献を考慮した。彼は既に「レーニン賞」についての委員会の当局者達と、間違いなく好意的な専門家の評議会に支援を求めてい る。」
プレハノフはツングースカ物体の問題は解決するどころではない、賞にふさわしいことは何も全くないと返答しました。クリノフは、誰が「レーニン賞」を断る だろうか?と非常に驚き、フローレンスキーに助けを求めました。フローレンスキーは隕石委員会議長であるアカデミー会員のフェセンコフがツングースカ物体 は彗星であると信じているので、それは彗星である、と言いました。

プ レハノフはフローレンスキーとクリノフに、公式に彗星説を「レーニン賞」に指名したなら、KSEは新聞や雑誌で大騒動を起こすと警告しました。実際に KSEは雑誌でフローレンスキーの立場を批判しました。この余波は大きく、結局フェセンコフと隕石委員会は「ツングースカ彗星」の「レーニン賞」計画は断 念することになりました。

当時ソ連の最高国家賞の一つ「レーニン賞」受賞者は社会的地位を非常に上げる中で、それを拒絶したプレハノフの勇敢さ誠実さは賞賛されます。彼は科学者として正しい行動をしました。


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