現 象>ツングースカ物体の飛行>ツングースカ物体の飛行経路と形状

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 ツングースカ物体の飛行                                              



ツングースカ物体は大 きな火球として目撃されています。多くの人が目撃したのにもかかわらず今だに飛行経路がはっきりしないというのは不思議な事です。わずかな数字の違いでな く、ツングースカ物体が飛んできた方向が南と東という90度も違う飛行経路がそれぞれ支持されています。それは下図の「S」領域ではツングースカ物体が南 から飛行してきた目撃情報で、「E」領域では東から飛行してきたという目撃情報というように、はっきり二分されています。
経路は方位角(a)と傾斜角(h)で表しますが、ツングースカ物体の場合爆心地の61°N、102°Eの水平面を基準にして子午線の北から東に測って方位角、傾斜を 傾斜角とします。

1.方位角
方位角には大きく分けて
「S」領域の目撃情報をもとにした「南−北」説、「E」領域の目撃情報をなどをもとにした「南東−北西」説と「東南東−西北西」説があります。現在有力な説は「東南東−西北西」です。
これらの説の混乱はその目撃情報の収集時期にもあるとも言われます。つまり
ヴォズネセンスキーは事件直後の1908年、クーリックは1921年から始まる初期の調査で目撃情報を収集したのは爆心地から南の Angara川流域の「S」領域でした。1960年代初期からは「E」領域の Lower Tunguska 川と  Lena 川の周辺から収集されました。そして爆心地付近の目撃情報は1950年前後に集められました。

mokugekieria

            Trajectory and orbit of the Tunguska "meteorite" : Zotkin,.I.T   Meteoritika,Vol.27,1966

(1).南―北説
歴史的に見ると
イルクーツク気象台長ヴォズネセンスキー(A.V.Voznesensky)とクーリック(L.A.Kulik)が約180°、アスタポヴィチ(I.S.Astapovich)が192°という南―北説の研究があります。
ヴォズネセンスキーがアンケートにより集めた目撃情報は地震に関する情報を集める目的でした。そのためアンケートには火球の項目はなかった のですが、彼の地震情報のネットワークに参加していた人の意識は高く、回答数61に対し火球にも言及していたものが11ありました。これらの目撃情報は事 件直後でもあり信頼性が高いと思われます。
ヴォ ズネセンスキーも、火球のほか音響と地震のアンケート調査から経路を計算し、東への小さな偏差はあるものの実質的にはほとんど南からの飛来と結論しました(1925年)。爆 心地が知られていなかった時期でしたが、彼の計算の経路を延長すると、爆心地の約70km離れたところを通過するということが後に分かり、見事な計算だと 認められました。他の全ての研究者がそれぞれに飛行経路を提案したのは、飛行の最終地(爆心地)が確実になってからです。
クーリックのアンケートも火球の軌道を求めるというよりも、それがどこに落下したかを重点にしていました。クーリックが調査を始めたときに集めたデータは目撃者が爆心地の南に偏っていましたが、ツングースカ物体の飛行は
ほとんど南から北へで、目撃情報は良く一致しました。
天文学者のアスタポヴィチは地震現象と音響の等値線が南に曲がっていることに注目し、初期の研究で164―206°、後には192°(1951年)としま した。

(2).東−西説
南東―北 西説

クリノフ(E.L.Krinov)はキレンスク(爆心地の南東)で火柱が垂直に見えたとの目撃報告に注目し、火球の痕が垂直に柱状に見えたと解釈し、キレ ンスク上空を通過したとして、137°としました(1949年)。
スィティンスカヤ(N.N.Sytinskaya)は、アンガラ川流域のケジマとカメンスコエでは火球が太陽の近くを通過した目撃報告から放射点を求め、 133°という値を得ました(1955年)。それまでの間接的な方法から初めて放射点を直接的な方法で算出したのです。

東― 西説
1960年代の初めはほとんどの研究者は新しい目撃情報の収集は無意味と考えていました。おそらく大部分の目撃者は死亡し、生存者は有益な情報をほとんど記憶していないであろう、というのが一般論でした。
しかし一人の学校の先生がこの考えを覆しました。Vanavara の学校の物理学の先生 Victor Konenkin はPreobrazhenka 村(上図E領域参照)で生まれ育ちました。彼は長い夜に年上の人達から半世紀前の印象的な事件についてしばしば聞いていました。そして1962年不可解な 飛行物体を発見しようと決心し、Nizhnyaya (Lower)・Tunguska 川及びその支流の多くの集落を訪れました。Konenkin は、目撃者が当時と同じ集落に住んでいたなら彼らに目撃場所に来るように求め、コンパスと角度ゲージで火球を始めに見た点と消失した点を測定しました。何 人かは目撃した詳細は既に忘れていたが、火球が右か左か、どちらから来てどちらの方へ行ったかは憶えていました。
Lower・Tunguska 川はPreobrazhenka の付近ではほぼ正確に南北に流れているので、ツングースカ物体が川を横切ったという目撃情報は重要です。そして目撃情報を分析した結果ツングースカ物体が Preobrazhenka の近くの川の上を飛行したということが分かり、居住者に確認すると、村の真上を飛んだという事も分かりました。Preobrazhenka 村は爆心地からほぼ東へ350kmの距離です。これは当時の研究者にとって驚異的なものでした。

Konenkin の集めたデータを検証するため、KMET (科学アカデミー・隕石委員会)、 KSE (総合自主探検隊)、 AAGS (天文測地全同盟協会)の各遠征隊はLower・ Tunguska 川に向かいました。この領域の調査は1972年まで続き、Lena 川流域まで事情聴取の活動を広げました。1908年に爆心地から東に住んでいた人約1000人に質問し、約400のツングースカ物体の飛行についての証言 が得られました。このデータは隕石の専門家 Vitaly Bronshten 博士により検証され、Konenkin の結果が正しいという結論になりました。

東南東― 西北西説
1961 年からの調査で倒木の範囲、方向が詳しく測定されました。倒木地域の形が蝶が羽を広げたような形に見えることからツングースカ・バタフライと呼ば れるようになりました。この倒木地域の形を模型で再現するという興味深い実験が行われました。ゾートキン(I.F.Zotokin)とツィクリン (M.A.Tsikulin)が行った爆薬による森林模型の倒伏実験で、ツングースカ異変地域の森林倒伏と同じ倒れ方をする方位角は105°でした (1965年)。
この頃から倒木の調査により得られたデータをもとに方位角の研究が進みファスト(V.G.Fast)は115°、後には99°と改めました(1967年)。
ヴォロビエフ(V.A.Vorobyov)とデーミン(D.V.Demin)は爆発の非常に強い光で出来た樹木の火傷跡から95°という値を求めました (1976年)。
目撃報告の中には異常な火球に方向を間違えるなど、かなり混乱したものがありました。その見直しから、アンドレェフ(G.A.Andreev)は123° (1990年)、ブロンスティン(V.A.Bronshten)は122°(2000年)と推定しています。また、ブロンスティンは倒木の角度と、森林倒 伏の状況を組み合わせ103°という値を求めています(2000年)。
植物の突然変異や堆積岩の磁気異常の分布もツングースカ物体の経路を東南東−西北西と考え、その影響とすると都合よいようです。

(3).結論は出せるのか…
それぞれの研究者の説はもっともらしく、どれが正しいのかよくわかりません。「南−北」説は基になった情報の鮮度は良いけれど 具体的なことはわずかしか含んでいない、東と南を間違えた、という意見があります。しかし次の目撃情報(目撃情報の5−3−10参照)はどうでしょう、爆心地から西南西609kmの場所からのものです。


A.A.Bulayov からソ連科学アカデミーに宛てた1962年10月17日付の書簡。
「事件があったのは両親と一緒にエニセイ地域のVerkhne−Pashinskoe村に住んでいた。そこはクラスノヤルスク街道沿いで、エニセイ地域の 都市から10kmだった。私は4歳だったが、非常に感受性の強い子だったので今でも全てのことをはっきりと憶えている。この日は数日前に私たちのところに クラスノヤルスクから私の父の妹の叔母さん Anya が来た。事件のあった日私たちは叔母さんと、離れた山の麓に住む祖母 Marina  のところへ行った。暑かったことを憶えている。私ははだしだった。祖母の家は南に窓が2つあった(太陽が見られるように)。祖母の家に到着してから私は箱 に 腰をおろした。それは壁のところで、窓に向かっていた。祖母と叔母は窓際のテーブルについて話し始めた。窓から赤い火の玉が後ろにほうきのような尾を引い ているのが見えた。その球は太陽の2倍の大きさで、うしろのほうきのようなものからそれほど明るくないパイプのような火花が出ていた。そして視野から消え た。私はすぐに叫んだ「太陽が、太陽が落ちる」。皆は窓に急いだが、火球はすでに墓地の後ろに隠れて、それから尾もともに消えた。
……次のことは大人の会話を聞いたのだが、Yeniseysk 市の警察には多勢の人々がこの火球を見たと言ってきた。この火球の飛行の角度は天頂から地平線にかけて30〜35°以上ではなかった。火球の明るさは日の出のときに靄がかかった太陽、飛行速度は私が観察した我々の衛星とほぼ同じだった」

この手紙に対し隕石委員会のゾートキン(I.F.Zotokin)は1962年10月25日付の返事で:「貴方の情報は我々のところにあるエニセイ市地域における落下に関する資料を裏付けます。実際にアンガラ川流域とエニセイ地域の町村では多くの人が火のよ うな球−火球を目撃しました。残念なことにこれらの観察情報は隕石の軌道を求めるために役立つものはごく僅かです。貴方の手紙の中にもおそらく誤りがあ り、火の玉を見たのは南方ではなく東方でしょう、その高度は30度以下でした。」
この
Bulayov の目撃を勘違いと断定する、ゾー トキンの手紙は1960年代からの科学アカデミー・隕石委員会の意見を代表しているのでしょう:目撃者はツングースカ物体と他の火球を混同している、方角 と地平線上の光景を間違えている、と繰り返し表明しました。集めた目撃情報の中にはたしかにそのようなものがあったのですが、それらは調査者により慎重に 削除されたのです。

「東-西」説の基になった目撃情報は詳細なものですが、事件から半世紀以上たってから収集したものです。
混沌とした目撃情報を完全に解析しようと、KSE の創設者である Victor Zhuravlev と Dmitry Demin は、 Alexey Dmitriev と共に研究することにしました。Dmitriev は当時ノボシビルスクの地質学・地球物理学協会で働く科学者で、試掘によって得られた地質学上の物体をコンピュータ解析していました。彼らは同じ手法でツ ングースカ物体の目撃情報を解析することにし、特性(時刻、継続時間、飛行物体の形、色、飛行方向など)が分析され抽出されました。形式化された情報は更 にコンピュータで分析されました。

この結果は上図の「E」と「S」の領域で目撃されたツングースカ物体の形状などの「像」が完全に異なるということでした……。(*4)


2.傾斜 角
方位角ほど多くの説はありませんが、初期にはかなり大きな範囲で推定されていました。
アスタポヴィッチは目撃情報から、5〜24°とし(1933年)その後7°としました(1951年)。その後「ツングースカ・バタフライ」が発見され、「蝶」の形に森林を放射状に倒伏させるためには大きな角度が必要で、
ゾートキンとツィクリンの模型実験 では約30°と推定し、
Anfinogenovは この形を説明するには隕石の落下角度を40-50°としています。

目撃報告を見直したアンドレェフは17°、ブロンスティンは目撃データと倒木のデータを組み合わせて15°としています (2000年)。
1983年セカニナ(Z.Sekanina)は5°と計算しましたが1990年以降の研究ではほとんどが15〜20°の範囲に収まっています。 

*1 Trajectory and orbit of the Tunguska meteorite
           Zotkin.I.F   Meteoritika, Vol.27 (1966)
*2 The Tunguska Meteorite problem today
           Vasilyev.N.V   Planet.Space Sci., Vol.46 No.2/3 (1998)
*3 Probable asteroidal origin of the Tunguska Cosmic Body
        Farinella.P, Foschini.L , Froeschle.Ch , Gonczi.R , Jopek.T.J , Longo.G and Michel.P
        Astronomy & Astrophysics (2001)
*4   Informational aspect of investigations of the Tunguska phenomenon of 1908
        Demin,D.V..Dmitriev,A.N.,Zhuravlev,V.K   Meteoritec Studies in Siberia. 1984

3.飛行時の形状
ツングースカ物体の飛行中の形状についてKSE (総合自主探検隊)が調査した708例について
Victor Zhuravlev 、 Dmitry Demin 、 Alexey Dmitriev  が上記のようにコンピュータ解析で分析しています。目撃者からの距離が判らないのが残念ですが、尾を引いていたという割合が少ないのは不思議です。尾を目 撃した人ははっきりした尾があったことを認めているのです。これは「E」領域と「S」領域で目撃された「像」が異なる形状として認識されたという結果で しょう。

    形   状  目撃者の割合(%)
   ボール状、球形      18.8
  円筒形      16.3
  尾を引いていた      14.0
  火花状      11.2
  炎状      10.3
  火の柱       4.9
  星の形       3.4
  光の線       2.5
  蛇の形       2.3 
  円錐形       2.1
  稲妻の形       2.1
  その他の形      12.1

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