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  KGBに目をつけられたKSE                                            



1958 年10月、トムスク大学の大学院生 Victor Zhuravlev はモスクワへ行きクーリックの3回目の遠征に参加した、クリノフ (E.L.Krinov) とカザンツェフ (A.P.Kazantsev) を訪問しました。クリノフはこのときは科学アカデミー隕石委員会の副議長でしたし、カザンツェフは有名なSF作家になっていました。Zhuravlev はクリノフにツングースカへの科学旅行のアイデアを告げ、アドバイスを求めました。クリノフは彼にツングースカ地域の地図のコピーを与え、森林の倒木地帯 の東の境界が不明確であるのでそこへ到達することを勧めました。当時ソ連の様々な地域の詳細な地図は完全に機密状態で、ツングースカ地域の地図はかなり粗 いとはいえ異例のことでした。

同 じ時期にトムスク医学研究所のベータトロン研究室で働くプレハノフ (G.Plekhanov) はツングースカ事件に興味を持っており、なぜ誰も現地で放射能の測定を行わないのか不思議に思っていました。プレハノフは友人たちを誘いツングースカへ行 くことにしました。ベータトロン研究室には携帯用の放射能計は無かったので、噂によるとトムスク工科大学の研究所の地球物理学部にはそのような機器があると いうので、プレハノフは研究所を訪ねました。地球物理学部の研究者は、2・3日前に Victor Zhuravlev と彼の友人 Dmitry Demin が来て、ツングースカ旅行のため携帯用放射能計を借りたいと頼みに来たと言いました。すぐにこの2つのグループは合同し、KSE (総合自主探検隊)が結成され、32歳のプレハノフが代表となりました。(総合自主探検隊の総合という意味は、まじめに研究しようとする人、物見遊山の野 次馬、取り交ぜたという意味らしいのですが、その後まじめな科学的な集団になりました。)

最初の遠征が1959年夏に計画されましたが、この時はスターリンの死後から5年後で「人民の敵」のための強制収容所がシベリアにそのまま残っていました。何をするのかよく分からない集団がタイガへ行こうというのを、周囲に理解させるのはかなりの困難なことでした。
それでもカザンツェフのSF小説により、ツングースカには異星の宇宙船の残骸が残っているかもしれない、というのは多くの人が関心を持ったようでした。 KSEの隊員から指揮官と呼ばれたプレハノフは精力的に有権者たちに支援を要請して回りました。そしてトムスクとバナバラ(Vanavara…ツングース カ異変地域にいちばん近い村)両方の地元政党と州当局の支持を取り付けました。さらに、若い科学者達が仮説の宇宙船の残骸を捜すためタイガへ行くことを 知った党の高い地位の官僚さえもKSE に最善を尽くして支援しました。

KSE は宇宙船の残骸を発見するために地雷探知機(金属探知機)を必要としていました。KSE は地元の軍隊に地雷探知機を借りたいと頼みましたが、軍は探知機は機密で一般市民は利用できないと拒絶しました。KSE は地雷探知機を製造する工場を突き止めましたが、工場の責任者はどうやって地雷探知機を製造しているのを知ったのか、知りたくてKGBに「怪しい人物」が 秘密の装置を探している、と通報しました。
プレハノフはトムスク市のKGB事務所に呼び出され「君がタイガで発見したものは速やかに我々に引き渡さなければならない。特にそれが宇宙からの物だった ら」と言い渡されました。さらに「遠征隊の参加者の名簿を提出し、承認を受けなければならない。我々は許可の与えてない隊員を連れてゆくことを禁止する」 とも。プレハノフは参加者の名簿を提出しましたが、奇妙なことにKGBはタイガへの遠征を、許可も禁止もしませんでした。それで彼らは秘密警察の公認なし でトムスクを出発することになりました。

地雷探知機は、プレハノフが軍から借りることを医学研究所の所長 I.V.Toroptsev に依頼しました。所長は公文書をシベリア軍管区の指揮官へ送り、KSEに貸し与えるように依頼したことによりプレハノフのもとへ「秘密の装置」が届きました。

その後KBGとKSEの関係がどうなったか不明です……多分何もなかったのでしょうね。もしKSEが何か得体のしれない物質を発見したら、KGBはそれを押収し、ツングースカ地域の中心部は立ち入り禁止区域となり有刺鉄線で取り囲まれ、監視されることになったでしょう。


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