現 象>異変と関連?>異変で発生したと疑われる現象があります

Home    現象   名所案内  人名リスト  書籍   珍 説奇説  類似現象  隕石亭雉子星  流星音

 異変と関連?                                              


ツングースカ異変と関係した生成物 がいくつも目撃報告の中にあります。現在でもその存在が確認されていないものもありますし、関連が無いと思われるものもありますが、ツングースカと同様な 現象が将来起きた場合に参考になるでしょう。
またロシア以外の国から調査に参加するようになってからの新しい発見もあります。これもツングースカ異変に関連するか、はっきりした結論が出ていませんが とても興味深いものです。

1.乾いた川 (СУХАЯ РЕЧКА)
ツ ングースカ物体の落下によって生成された構造物としてはもっとも有名なものです。長さ数10mの溝で端は軟らかい土で満たされた丸い穴だそうです。この話 の出所は、スースロフ(I.M.Suslov)がエベンキ人達の目撃情報として雑誌に論文を掲載したことによります。彼らの話しとして、1908年のツン グースカ隕石の落下により森林倒伏と尾根では彼らにより「乾いた川」と呼ばれた特異な構造が出現した、と報告した。この話はクーリック
(L.A.Kulik)にも伝わり、クー リックの要請によりスースロフは目撃者の一人イワン・ジョン・コウル(I.I.Onkoul)を会わせました。しかし話し合いは感情的にもつれ、ジョン・ コウルは「乾いた川」については何も知らず、夏には「すべての川は乾く」と述べただけでした。クーリックは「乾いた川」を否認した証書を作成しジョン・コ ウルらエベンキ人に署名させ、自ら調査することはしませんでした。
「乾いた川」説の再点検はKSEが中心になり1959年から始まりました。1960年にはヘリコプターを用いて探求が行われましたが、そのような構造物は 発見できませんでした。1966-67年ツングースカ異変地域の航空写真の詳細な判読がジョン・アンフィノゲノフにより行われ、Shakhorma(Шахорма)山南方の丘陵に疑わしい構造が注目され、KSEにより詳 細な調査が行われましたがその生成はまったく自然なものであることが立証されました。
「乾いた川」を明らかにする再三の調査でも存在が明らかにならず、現在では構造物があったとしても森林に覆われ上空からの探査では発見するのは不可能で しょう。それにもかかわらず多くの人は「乾いた川」を現実のものとしています。それは最初にスースロフが得た情報が1925年のsuglan(суглана…エベンキの氏族集会)のときだったからです。 suglanで嘘を言うことは極めて不名誉なことで、厳罰に処せられた、というからです。

2.南Chunyaのクレー ター群ЯМЫ НА ЮЖНОЙ ЧУНЕ
「乾いた川」同様1925年のsuglanのときに話が出たものでスースロフにより報告されました。さらにスースロフは1967年にも南Chunya川上 流でツングースカ隕石落下時に穴が出来、森林が倒れたことをエベンキ人から情報を得たと報告しました。KSEやITEを主催したヴァシリエフも1975年 にエベンキの狩人との話でこの存在を確認したそうです。しかし南Chunya川上流は爆心地から北東約100kmでこの地域には現在までに探検隊は訪れて いなく、クレータ(穴)や森林倒伏(ツングースカ・バタフライの外)の現地調査は行われていないようです。

3.Yankovskiyの石
1929年から30年のクーリック(L.A.Kulik) を隊長にした 調査隊の一員として、狩猟家のヤンコフスキー
(K.D.Yankovsky)が参加しました。「Znanie- Sila」(知識は力)誌にツングースカ異変地域の中心部で見つけた異常な石についての物語を発表しました。
1930年夏クーリックはしばらくの間一人ワナワラ(Vanavara)に戻っていましたが、ヤンコフスキーには宿営地のクーリックの小屋から2-300 歩以上離れるのは厳禁という命令していました。しかし彼はこの命令を無視し遠征を行いチュルギム川に近いタイガの中で奇妙な石を見つけました。この石は長 さ約2m、幅1m強、高さ8-90cmで乾いた泥炭地に横たわり、鉱 滓のようなものに覆われ、異常な外観でした。磁石を近づけても磁針の向きは変わらなかったので磁性は持っていないようでした。
ヤンコフスキーはこの場所からの帰り道に毒蛇に咬まれ、帰還後数昼夜の間、半ば無意識の状態で横たわっていました。ワナワラから帰ってきたクーリックにこ の石の写真を見せると非常に興味を持ち、すぐにでも見に行きたいと言ったが、その石が磁性を持っていないと判ると急に興味を失った。再三ヤンコフスキーが 見に行くように誘ったがクーリックはどうしても応じなかった。1930年代の探検隊の捜索対象が鉄質で、石質は対象外だったため忘れ去られようとしてい た。
1958年フロレンスキー隊がツングースカ隕石が石質だった可能性を発表したことにより、
ヤンコフスキーがこの石のことを 思い出した。しかし長い年月のためヤンコフスキーはその場所を忘れてしまっていた。
1960年夏チュルギム谷付近を陸上と、ヘリコプターから捜索が行われました。1965年には北はストイコヴィッチ山、南と東は南沼、西はクーリックの道 で限られた場所の区域全体を10m毎に印のついた平行な経路で徹底的に調べられたが石は見つからなかった。「ヤンコフスキーの石」の写真は1973年
ス トイコヴィッチ山麓でジョン・アンフィノゲノフが発見した「ジョンの石」にも似ています。 「ジョンの石」は氷河により運ばれてきたと考えられています、「ヤンコフスキーの石」も氷河により運ばれてきたのでしょうか。

4.東方倒伏(ВОСТОЧНЫЙ ВЫВАЛ)
東方倒伏に関する情報はロシアの大天文学者で流星天文学が専門のアスタポヴィッチ(I.S.Astapovich)によりもたらされました。これは現在知 れれた爆心地から約200km東方に、ツングースカ隕石の落下により惹き起こされた第2の破壊地域が存在するというものです。
ア スタポヴィッチは、1911年にニジニャヤ・ツングースカ川とレナ川左支流を結ぶ道の探検に副隊長として参加したP.N.Lipayという人物と知り合い ました。このときの隊長は測地学者で作家のV.Ya.Shishkovでした。
Lipayによると探検隊の経路は次のようなものでした。Erbogachen(61°16′N、108°E)とPreobrazhenskoe村 (60°02′N、108°E)の地域で調査を終えたあと更に北を目指したが、Ilimpeya川の河口付近で(63°17′N、105°35′E)で乗 員と平底舟は氷に閉じ込められた。幸運にもエベンキ人に助けられ、ここから子午線沿いに南方を目指し、Kezhma村(59°00′N、101°05′ E)を経てTayshet(55°56′N、98°02′E)に到着した。
その際にポドカメンナヤ・ツングースカ川に達していないときに、探検隊は森林が倒れた広大な地域を横切り、案内人は1911年より数年前に「火の蛇」の落 下により生じたと説明した。
アスタポヴィッチはShishkovがツングースカ隕石落下地 を横切ったことを疑い、Lipay に探検隊の進路の略図を描くように頼んだ。それはクーリックにより記録された倒伏地帯よりも約200km東方を通る帯だった。驚いたアスタポヴィッチは 「Priroda」誌に、ツングースカ隕石の落下により惹き起こされた第2の破壊地域が、クーリックの小屋よりも200km東方に存在するとの説を発表し た。
東方倒伏が存在するのかを検証するにはShishkovの隊がKezhma村に到着する道程の最後の部分を明らかにしなければならない。問題は Kezhma村の前にOrlik村を通っていること記録されているが、Orlik村は1911年にもそれ以前も全く存在していなかった。探検隊は Orlik村ではなくワナワラ(Vanavara)村を通った可能性がある。ワナワラ村を通ったなら探検隊はツングースカ・バタフライの北東域を通過した のであり東方倒伏は存在しなくなる。この「東方倒伏」のあると仮定される地域は再三激しい火災に見舞われ、重なり合ったさまざまな年代の森林火災による跡 があり航空写真でも倒伏の証拠は見つけにくい。
1975年A.P.
Boyarkina (А.П.Бояркина)の探検隊はV.Ya.Shishkov 隊の進路を徒歩による調査をした。いくつかの場所で約60年の古さで東北に向けられた森林の帯状倒伏を見つけたが、1908年とはっきり関係つけられそう な倒伏森林の広大な地帯は見つけられなかった。おそらくこれは通常の風による倒伏だと考えられている。
それにもかかわらず
「南Chunyaのクレー ター群」についての説の組合せでは、ツングースカ隕石落下の結果この地域で何らかの破壊が実際に起こったことはかなり可能性が高いと考えられている。

5.西方倒伏(Западный вывал)
クーリックの小屋から西方約25kmの30-40kuの古い風倒木 の地域で
1959 年KSEの最初の探検により発見された。エベンキの間ではツングースカ隕石の落下により、クーリックの小屋地域の森林倒伏と同時に形成されたという話に なっている。事実この地域の風倒木の年齢はツングースカバタフライの倒木とほぼ同じだが、その構造は異なっている。倒伏は線状の構造を持ち、しかも東方 (爆心地に向けて)倒れている。この地域の森林は20世紀初めの森林火災の明瞭な痕跡を残していた。
現在では「西方倒伏」はツングースカ隕石落下と偶然同時期に起こった森林火災の焼け跡だと考えられている。この地域の焼け跡はツングースカ異変の数年前に 形成され、1908年と関係ないが、ツングースカ爆発はこの地域に何らかの影響を及ぼした、と考えるのが妥当だろう。

6.山上の山(Гора на горе
クーリックの探検隊で「ヤンコフスキーの石」
の発見者ヤンコフスキー(K.D.Yankovsky) がエベンキから聞いた情報がもとになっている。隕石落下後しばらくして地元狩人の一人は狼の追跡に熱中して、地元住民が訪れることを恐れた森林倒伏地帯の かなり遠くまで迷い込んだ。周囲を見渡して彼は異変地域にまで狩をしていたことに気付き、そこで彼がよく知っている高地のひとつが起伏が激しく変化してい た。まるで山の上に第二の山が現れていることを発見した。起伏の変化に驚いた目撃者は恐れて、それ以上詳細な記述を与えなかった。

7.マイクロクレーター
チュルギム川の石に何かが高速で衝突したような痕があります。1991年のITE2(第2回国際ツングースカ調査)でイタリア・ボローニャ大学のチームが 発見したものです。チュルギムの滝の近く、ひとつは川のほぼ中央にある直径1.5mほどの石に、直径20cmほどのクレーター状の痕があります。もうひと つは左岸の断崖の途中にあり、こちらは5・60cmの石に10cmほどのクレーター状の痕がある。この小さなほうは崖のもっと上にあったものが転がって今 の場所に落ち着いたのだとか。それでこの小さなほうのクレーターの位置はツングースカ物体の爆発位置とは一致しませんが、大きなほうの クレーターはほぼ一致します。ボローニャ大学の調査研究の結果、これはツングースカ物体の小さな破片が衝突した痕ということです。
実際にこのクレーターを見た場合、ツングースカ異変で生じたものか疑問です。大きな石は大変に目立つ場所にあり、チュルギムの滝はクーリックが調査に訪れ ていた時代から美しい滝として有名で、ツングースカを訪れた人たちはここで休憩することがしばしばだったそうです。注意深い探検者たちがこのクレーターを 見逃していたとは考えられません。川の水量が多いときは水没してしまうでしょうが、探検が行われる夏は水量が少なく、水に浸かることなく石のところまで行 けます。
狩をする人がこの地域にも入ってきます。1992年の調査の折もクーリックの小屋の近くでも銃声らしき音を聞いた人がいます。ライフル銃かなにかの弾痕ではないでしょうか。本物の弾痕を見たことがなく、想像なのですが。実験をしてみる必要があるのではないでしょうか。

      Top に戻る