現 象>地震波・大気波>爆発により地震が発生し気圧の変化がありました 地震波・大気波 |
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ングースカ異変の中心地の南南東973kmにあるイルクーツク気象台は1884年に設立され、1886年から気象観測と磁気測定を開始しています。そしてすぐにシベリアの地球物理学の中心となり、1895年地球物理学者で気象学者のヴォズネ
センスキー(A.V.Voznesensky) が責任者となりました。ヴォ
ズネ
センスキーは自身で気球の飛行を行ったり、規則的な空中観測を行うなど進歩的な学者で、観測所の機器はいつも最新式のものを備えてあったということです。
彼はまたこの地域でしばしば起こる地震に関する情報をあつめるための観測者の通信ネットワークを創りました。このネットーワークには気象観測所の管理者、
郵便局員、教師など地元の知識階級の代表が含まれていました。1908年6月28日と30日に観測所の2つの地震計が地震を記録して、ヴォズネ
センスキーはすぐに彼の地震ネットワーク員にアンケートを送りこの2つの地震の細部を提供するように求めました。 28日の地震は30日のものよりも強くそしてごく普通に見える震動が記録されていましたが、30日0時18分頃(世界時、現地時間午前 7時過)から記録された弱い地震波は不思議な震動でした。(*1) お よそ2分 後に最大振幅を記録し、それから震動はゆっくりと小さくなってゆきましたが、1時03分06秒頃からその中心が波打ち始めました。ヴォ ズネ センスキーはネットワークから集めたデータを処理し、地震計のデータ解析からこの震動は隕石の落下によるものと判断し落下場所の座標N60° 16′、E103°06′と落下時刻 0時17分11秒という現在知られている値と比べても驚くべき精度の計算値を得ました。また隕石の経路を南南西から北北東と計算しました。驚くべきことにヴォズネ センスキーはこの現象を「隕石の破壊」と呼び高度20kmで隕石が破壊して地表に破片が落下したことにより微震が発生したと考えました。ヴォズネ センスキーは1908年6月30日に中央シベリアで弱い地震があったことを科学アカデミー地震委員会に提出したもの、飛行の目撃情報や彼が計算した経路や爆心地の情報はあえて含めませんでした。ヴォズネ センスキーが彼のデータを論文にして公表したのは1925年のことでした。(*2) こ
の地震波はタシケント(ウズベキスタン共和国の首都、爆心地から3099km)、 トビリシ(旧ティフリス、グルジア共和国の首都、爆心地から
4335km)、イェナ(ドイツ、爆心地から5293km)でも記録されました。ほかに記録があるのか判りませんが、ヨーロッパ全土で地震波を記録できた
のではないでしょうか。 爆発音は1200kmの遠方でも大砲を発射するような音として聞かれています。シベリア各地の気象台や測候 所の普通の自記気圧計が異常な気圧の振動を記録しており、そのもっとも遠方はヴェルホヤンスク (ツングースカの東方約1680km) のようです。また感度の良い、微気圧計を備えてある各国の気象台ではポツダム(ドイツ、約5080km) が4時間30分後に、バタヴィア (Batavia、インドネシア現ジャカルタ、約7470km) が6時間30分後に、ワシントン(約8910km) では7時間50分後に微気圧変動が観測されました。さらにポツダムでは爆心地から直接伝わってきた波のほかに地球の反対側をまわってきた波を30時間15 分後に検出していました。この波の伝わった距離は約34920kmにもなります。(*4) 1963 年8月に調印された部分的核実験禁止条約は、核実験による爆発を遠方からでも検知できることが可能になったことが大きな推進力になったといわれています。 ロシアの地球物理学者 Leonid Brekhovskikh と Ivan Pasechni は自記気圧計の記録は核と非核では根本的に異なると証明しました。エネルギーの集中が小さい非核の爆発による自記気圧計の記録は、波形の形と周期は一定の ままです。爆心地から自記気圧計までの距離がどんなに遠くてもそれが記録される時間は同じです(もし、爆心地から100km離れて10分間爆発の記録をし たら、5000km離れていてもそれが10分間続くことを意味する)。エネルギーの集中が高い核の爆発の場合は、波形の振幅と周期が時間と共に減少してゆ きます。従来の爆発と違い自記気圧計から遠い核爆発の場合はその記録は長時間続きます(数100kmの距離で数分間、数1000kmで30分間)。 (*5) 下 図は実際の非核、ツングースカ爆発、核爆発の自記気圧計の波形の比較です。非核は強力な化学爆発で、核爆発は1954年3月、マーシャル諸島(ビキニ環礁の実験 のことだと思われます)のときの記録です。ツングースカのものはロンドン(爆心地から5740km)での記録です。非核と核、どちらのほうに近いかと問わ れれば、核の方ということになるのでしょう。 これは私のいい加減な見方だけではなく、京都大学理学部教授で気象学・気象変動論の専門家であった山元龍三郎氏も記しています。その随筆「隕石、波およびNEIAC」から以下に引用します。 <
私が1908年のシベリア大隕石落下について知ったのは京都大学大学院在学中のことであった。当時私は気圧の微細変化を観測していたが、1954年3月に
奇妙な波形の観測に気づいた。これを指導教官の故滑川忠夫教授に報告したところ、英国気象局長のショウ卿が原因不明の変化として著書に記していたものと波
形がよく似ているので、文献を調べるように指示された。 文 中、英国までの距離を約7,500キロとしていますが、これは5,700キロの誤りでしょう。またショウ局長というのはW.N.Shaw 博士でホイップル博士はF.J.W.Whipple でその論文は「The Great Siberian Meteor and The Waves,Sesmic and Aerial,wihic it Produced」です。山元氏は和歌山県潮岬の微気圧計に記録された波形に注意されたものです。 日 本ではツングースカ異変現象を検出していたでしょうか。「明るい夜」、「地震波」、「大気波」いずれも日本での観測報告は無いように思います。日本でも地 震波や微気圧変動を記録していたと思われるのですが、観測データを処分してしまっている場合が多いようです。私は新潟地方気象台を訪れたときに1908年 6月30日の観測原簿を見せてもらいましたが、自記記録計のデータはもしかしたら倉庫にあるかもしれないが捜すのは簡単 じゃない、と職員の方が言っておられました。どこかの気象台、大学、研究所にはデータが眠っている可能性があるのですが、処分されないうちに捜し出さない と取り返しのつかないことになります。 *1 Giant Meteorites
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