隕石亭雉子星>太刀川喜右衛門が見た彗星

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           太刀川喜右衛門が見た彗星                                              



古文書の中に天文の多くの記録が残されていますが、それらの多くは科学的興味というよりも、人智をこえた「天変」として恐れられた記録なのでしょう。
小千谷市片貝町の文化・文政時代の庄屋、太刀川喜右衛門が著した「やせかまど」にも彗星の記述があります。この中には約50年間に渡り庄屋の心得、農民の生活、事件、災害などが記述されています。全国的にみても貴重な資料と されています。

「やせかまど」の彗星の記録は太刀川喜右衛門が純粋な好奇心からの科学的な記録で、私は非常に興味を持ち調査をしました。「やせかまど」の復刻本は解説付きで小千谷市教育委員会で購入 できますが、彗星についての解説はありません。「やせかまど」の彗星の記述は次のようなものです。
(1)文化八年未歳(1811年)の秋7月中旬から箒星がみえた。
(2)初め西北の隅から始まった。
(3)北斗七星の光っている星に光芒が向かったが、日を重ねるに従って東南に寄ってきた。
(4)九月下旬には天の川あたりに現れ、織女星に光芒が向かった。

以上の記述の他に「三才図絵」(「和漢三才図会」のことと思われる)にあったという北斗七星の図に彗星の位置と尾の様 子が描かれています。「…漢書等に星のことがいろいろあったが、天変はよいこととは書いてない。けれども、豊作の年に逢ったのは、まれなことであったろ う。凶が変じて吉になったのであろうか」。太刀川喜右衛門はこんな感想も記しています。

1811年には2個の彗星が発見されています(1811T、1811U)。この2つの彗星以外に1811年に近日点を 通過した彗星は記録されていません。喜右衛門の観察によると1811年8月(新暦)下旬から、2ヶ月以上も肉眼で見えていたことになります。 1811Tは9月12日、1811Uは11月11日に近日点を通過していますので、「やせかまど」の中の彗星は1811Tと考えられます。1811Tの軌 道要素からパソコンでシミュレーションした結果は、喜右衛門が「三才図絵」に記入した結果とよく一致します。尾の方向も合います。合わないのは喜右衛門が 8月3日(旧暦、新暦9月20日)に記した位置です。仮に3日を13日にすると位置は一致します。これは喜右衛門の勘違いか、後世の人 が写し間違えたのでしょう。

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太刀川喜右衛門が「三才図絵」に記入した
彗星の位置

(「やせかまど」片貝町郷土史研究会  
 発行より)

 

 

 

 

 

1811


ステラナビゲータVer6
(潟Aストロアーツ)に
よる小千谷市から見た、
1811T彗星の位置

8/13(旧暦)の彗星の尾は
青色はダストテイル
茶色はイオンテイル

イオンテイルの方向は
喜右衛門の観察と一致
する。






1811Tは発見者の名をとってフラエルゲス (Flaugergues)彗星と呼ばれていますが、19世紀最も有名な彗星ということでGreatCometとも呼ばれています。1811年3月25日 に発見され、翌年の8月17日までの観測記録が残されています。尾は最大25度の長さに見えたといい、まさしく大彗星でした。明るく見えたのは初秋で、し かも夕方の空に現れたということもあって多くの人が日記や記録に残しているようです。天保の改暦を命ぜられた足立佐内も観測していますし、他の新潟県関係 者では村松藩の瀬戸方棟梁、道川忠治の日記にも記されているようです。

太刀川喜右衛門と同時代の、「北越雪譜」で名高い鈴木牧之も「永代庚申帖」の中で彗星を記しています。文 政九年(1826年)の項に次のような記述があります。
(1)8月20日(新暦:9月21日)頃から彗星が見えた。
(2)南東の方向から北北東へ向いていた。
(3)9月10日頃見えなくなった。
(4)尾の長さは三間に見えた。
この記録では彗星の見えた星座、時刻がわかりませんが、およそ東の方向に見えているので夜半過ぎから明け方にかけて見えていた のでしょう。彗星の核から南の方向へ尾が延び、20度くらいの長さに見えたと推測されます。1826年8月から翌年6月までに近日点を通過した彗星は3個 知られています。この中で10月9日(新暦)に近日点を通過した1826Wが最も有力です。この彗星は8月7日から12月26日(いずれも新暦)までの観 測記録が残されています。この彗星はフランスの天文学者ポンス(Pons)が発見したものです。

太刀川喜右衛門は鈴木牧之に比べ知名度は低いのですが、彗星の観察記録は科学的に正しい処置で、彗星だけでなく他の記述とも併せ、純粋な科学的好奇心を 持っ た相当な知識人だったと思われます。


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