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佐渡の僧、潮音が著した「撮要佐渡年代記」(原題は「撮要年代記」
1740年刊)の享保17年(1732年)の項に次のような1行の記事がある。 「撮要佐渡年代記」は昭和48年に発行された「佐渡叢書」にも収められていて、その解題に「……「挽臼石」は隕石のこ
とで、この記事は中央の気象学の学術書にも記載されている」とある。この中央の学術書が何をさすのかや、この記事のことを「佐渡叢書」の編者に問い合わせ
たが返事をもらえなかった。 田野浦という地名は旧・小木町にあるが、旧・相川町には北田野浦がある。相川の北田野浦という地名は近世中期までは田 野浦村と称し、享保2年から北田野浦の記載が見られ、文政年間(1818〜30年)以降これが通例になったと言われる。したがって享保17年には佐渡に田 野浦村が少なくとも二村あったことになる。小木、相川ともはっきりした隕石の伝説は残っていない。しかし「佐渡国略記」を書いた人は相川の人であるし、北 田野浦の「堂屋敷」(お寺の前身、約130年前に焼失、現在は再建されて「十王堂」となっている)には雷さんの伝説があったそうである。この伝説も現在で は忘れられていて詳しい内容は分からないが、雷さんが落ちて地蔵さんになったというものらしい。隕石落下の際には閃光や大音響を伴うことが多く、そのため 西欧でも長いあいだ雷と混同されたという。雷さんの伝説が隕石に関係あるかもしれないが、確認するのは難しいだろう。 「佐渡田野浦村の引臼石」の文献調査をしているときに、相川町史編纂事務局の方から「神鳴の銚子」の伝説を教えていた
だいた。「佐渡相川の歴史資料集」によると、弥十郎町(旧・相川町弥十郎町)の満松山大願寺の宝物に「神鳴の銚子」があった。この由来は、享保の末の初
冬、富士権現に落雷のような現象が起きた。しかし雷が落ちたのではなく、人々が不思議に思い近づいてみると畑に何かあり、取り出してみると高さ5寸ほどの
壺であった。この銚子に似た壺のようなものを拾い持ち帰った男の家ではその後病人などが絶えず、占いにみてもらったところ壺のせいだということで大願寺の
天満宮に奉納したという。「神鳴の銚子」は現在行方不明だが、隕石落下の様子とよく似ているので隕石の可能性が高い。時期が享保の末の初冬とい
うことから、「佐渡田野浦村の引臼石」との関係も考えられる。同じ隕石が分裂したのかもしれないが、北田野浦と富士権現とは距離が
離れすぎているように思える。あるいは母天体が同じで、同じ軌道だったのかもしれない。 文献調査だけをやっても埓が明かないので京都の篠田氏と現地調査をすることになった。 次に田野浦村は相川の北田野浦と断定して「十王堂」へ。堂の内外におびただしいお地蔵さんが安置されていた。隕石が紛 れ込んでいるのではないかと必死で探したが見つからなかった。雷さんの伝説については民宿の人などに尋ねたが誰も知らなかった。 翌日明け方近く皆既月食が見られるのだが、歩きまわって疲れたので月食は見なくてもいいや、と少し後ろめたい気持ちで寝たが、夜中に目が覚め二人で日本海 上の欠けた月を見て、これで義理は果たした、とまた布団に潜り込んだ。 |