隕石亭雉子星>田毎の月

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           田毎の月                                              



以前、小千谷市教育センターの、天体観望会の手伝いをしていたことがある。
あまり天侯に恵まれず、実地率は40%位だったと思う。けれど日頃一人で見たり、観測している自分にとって大勢で見るというのはなかなかおもしろいこと や、興味深いことが少なくない。1989年の中秋の名月には、この地方の昔の月見を再現した。センター職員のT氏が凝り性なものだから、ススキを生けた り、里芋などの野菜、それにもちろん月見団子を三方にのせて雰囲気をだした。センターの職員は参加者に団子を食べてもらうため、前日から餡を煮て、当日は 朝から 団子作りだったという。
この夜、最初は曇っていたが、しだいに雲がなくなり、澄んだ秋の夜空に青白い月が婆を現すと参加者から歓声が上がった。OHPのフィルムに月の写真をコ ピーして、それをスクリーンに映して望遠鏡で見えているところを説明したり、月の伝鋭を朗読したり、初めての試みが多かったがすべてうまく行って、しかも 好評だった。
そこで、2匹めのドジョウを狙うことになり、「二十三夜の月待ち」と「田毎の月」の案がでた。T氏は「二十三夜の月待ち」に乗り気だったが、真夜中まで飲 み食いして月齢23の月の出を待つ、というのは教育センターが主催するには問題と、T氏を説得しない訳にはいかない。そこで「田毎の月」にしようとなり、 場所を探す ことになった。

「田毎の月」といえば長野県更埴市(現在・千曲市)の冠着山(姨 捨山)から続く斜面の田圃に映る月が代名詞のようになっていて、月の名所と知られる長楽寺 境内から見る眺めが有名です。「田毎の月」と呼ばれる田は、西行法師が四十八願にかたどって一反歩を四十八枚に割ったものとされています。その田に各々月影が映ると言われてきました。

段々田圃があるところといえば、山古志村(現在は長岡市ですが…)。
山 古志村だったら簡単に、段々田圃に月が映る場所が見つかると考えていた。しかし、甘かった。いろんな人に聞いてまわったが、適当な場所がないのだ。たしか に山古志村はほとんどが段々田圃だが、月が映る田は見る人から1kmくらい離れていなくては情緒がない。また、月が高く上ってから田に映 るのもよくない、山から出た月が直後から映り始めなくては絵にならないのだ。それに田圃に水が張ってあり、稲が成長していないうちでなければならない、と いうような条件がある。つまり、田植え直後の季節に、満月の月がちょうどよく出てくる位置に、月が都合よく映る段々田圃があり、それをちょうどよく見る為 の場所が必要だ。 結局さんざん探しまわった揚げ句、「田毎の月」は観望会では無理と諦めた。

そんな折り、十日町市の飛渡(とぴたり)地区が明治時代から知られた「田毎の月」の名所であることが判った。さらに、 最後の目撃から30年以上になり、伝 説化した「田毎の月」を確認しようと、地区の公民館が数年前から観月会を催していた。
飛渡地区は十日町市の中心部から北東の山中で、信濃川の支流飛渡川に沿って新水、蕨平、上田原、三ッ山などの集落がある。この三ッ山の標高320m付近の 山道から見て、東南東方向に約500m、標高差にして約100m下の水田に月影が映るという。

中条村(現在、十日町市中条)の『中条村蹟』では次のように紹介している。「毎年6月13、14、15の3日間、満月 を中心として前後3日間、しかも月 が出てより2時間の間だけ三ッ山部落四十八曲がりの坂を上がり、屏風ガ松の峠で見ると、田一枚毎に月影一つずつ映ってみえるとの事。月形の映り様は三通 り。大きくあたかも朝の日の出の様の大きさに、また普通の大きさ、または小さいのが七つ八つ一枚の田に映り直ちに消えて次の田に移動して移り三通り。田毎 の月の見えるところは屏風ガ松の峠に限り、他の場所では絶対に見られぬ。夕立の行った晴れた晩、特によく観える。名所として近隣に鳴響きき、その日は遠 く、小千谷方面より見物にくる」

『中魚沼郡誌』には発見の経緯として、明治二十年頃に三ッ山の大津文八氏という人が偶然に発見したとある。明治三十 八、九年頃が全盛で、菓子売りや酒売り まで出て、山中に尺八の音、詩吟の声が朗々と流れたという。
しかし昭和30年頃からは観る人もいなくなり、観月の場所に通じる山道も荒れ果て草が生い茂っていて、普段は人が通られずほとんど忘れられていた。 1985年飛渡地区公民館では地区に伝わる伝説の「田毎の月」を確認しようと企画した。
翌年から5月の満月に合わせて草刈りや倒木の除去を行い、山道を整備して観月会を開いてきた。しかし天侯に恵まれず、やっと見えたのは1989年5月21 日のことだったという。

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1991年5月27日、仕事の取引先のN氏、T氏らと観月会に参加した。この夜は薄曇りだったが100人近くの人が集まった。月の出30分後くらいに雲間 から姿が見え、沢を挟んで反対側の上の水田から月影が映り始めた。暗闇の中に水田二、三枚がボーツと明るく浮かび上がり、中心に映る月形はやはり大きかっ た。三ッ山集落の戸数が少ないうえ、水田から家が離れているため月影以外の光はまったく といって無い。この幽玄な光景自体が現実離れしていて、しかもそれを見ようと辺鄙な山中まで上ってくる人が大勢いる。私が人間をまったく疑わない、という のはこんなときだ。
見ながら発見者、大津文八氏の曾孫にあたる大津文夫氏からお話を伺うことができた。氏が初めて見たのは中学生(昭和25年頃)のときだったという。このと きにはもう伝承として残っているだけで何10年も見た人はいないが、お姉さんが先祖が発見したものだから是非見たいと兄弟4人で見にでかけたとのこと。そ の夜の空は澄んで晴れ渡り、今まで見た中でもっとも印象的な「田毎の月」を見ることができたという。このときは月が山から全部婆を現さないうちに水田に丸 い月が映り、山と水田の角度からしてありえないことなのに、と長い間不思議に思つているという。水田がいわゆる千枚田のため、水面全体が銀色に輝き、泳ぎ 回る蛙の姿がはっきりと見えたという。
鏡色の水面と黒い波紋、そこに泳ぎ回る蛙も銀色に染まっただろう……。私達はこの話を聞いて、メルヘンの世界を想像してため息が出た。
いつしか見物人のほとんどは山を下り、残ったのは10人位になった。
そして少し高度を上げた月影は、さらに幽玄な光景を展開させていた……。

(1992年の中秋の名月に合わせ本場の「田毎の月」を見ようと長楽寺に行ってきましたが、あいにくと曇り空でした。
魚沼市の山中でも「田毎の月」が見られる場所があるそうです。昼間は行ってみたことあるのですが、夜間には未だ行ったことがなく、未確認ですが)

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