ツングースカのことを知ったのは、たぶん小学生の2・3年生ころだ、姉の学習雑誌に新世界の七不思議というような特集があった。見開きのページに「シベリア鉄道の列 車が
停止し、トナカイの群れがおびえたように逃げてゆく、そして空にはキノコ雲のような爆発を暗示させる雲が湧き上がっている」こんな絵の下に解説文があっ
た。解説の文章は忘れてしまったが、シベリアのどこか、ポドカメンナヤ・ツングースカ川流域で原因不明の大爆発があったということ、それでツングースカ
事件と呼ばれることは以後忘れはしなかった。
たぶんこの雑誌が出た数年前の1958年はツングースカ50周年でロシアでは関連の出版物
が多く、記念切手まで発行されたことで日本にもツングースカ事件のことが広く知ら
れるようになったのだろう。星に興味を持ち、天文の解説書や参考書を開くとツングースカの文字に出会うこともあった。ツングースカ隕石、クレーター群があ
る、
というような内容がほとんどであった。ツングースカは謎ではないのかあれはただの隕石の落下だったのか、あの姉の雑誌の特集はいい加減なものだったのだろうか、たぶんそうかもしれないと思
うようになった。
20歳でNMS(日本流星研究会)に入会した。その直後、会の機関誌に京都の篠田氏による「1973年6月30日にアフリカ大陸を横断する20世紀最大の皆既
日食を観測に行こう」、という呼びかけが載った。6月30日といえばツングースカ事件の日である。しかも昼間の流星群「おうし座β群」の極大日、皆既中な
らば昼間の流星も見られるかもしれない。この流星の母彗星はエンケ彗星で、ツングースカ物体もエンケ彗星に関係あるのではないかといわれていた。直ちに篠
田氏に参加したい旨の手紙を出したのは言うまでもない。
ケニアの砂漠で皆既日食は見られたが、肝心の皆既中の流星は見えなかった、とい
うか日食の進行に従い不気味な雰囲気に興奮度は高まり、皆既直前には流星の
ことは頭から消えていた、というのが正しい。しかし同行していたNMSのベテランたちは冷静に皆既中の黒い太陽の周囲にも注目してたが流星は認められな
かったという。皆既中の空には金星や水星が見えていたが、恒星は確認できず火球クラスの明るい流星でなければ肉眼では見えなかっただろう。
篠田氏も人一倍ツングースカには興味を持っていたが、このときにはもう65年経
た現地はすでに倒木は腐敗し埋もれ、森林や草に覆われ事件の跡は残っていな
いと考えておられた。もっともな考えで今更調査は行われていないのだろうと思ったが、歴史的な場所に行ってみたいと漠然と思っていた。
篠
田氏にはアフリカ日食以後も親しくして頂き、1981年のシベリア日食にあわせツングースカを訪問しようという計画が持ち上がった。20歳過ぎてSF小説
をよく読むようになったが、ツングースカ事件は宇宙船が爆発したとか、爆発したのは動力船で指令船は切り離されてまだタイガに埋まっているとか。UFOの
専門誌には、事件後に樹木が異常生長したとか、トナカイに放射能によると思われる病気が発生したとか、ツングースカ物体の飛行コースは信じられないほど変
えている、飛行スピードは隕石の落下速度に比べ極端に遅いとかでツングースカ爆発は核爆発に違いない、というような特集されたりした。全国紙の一部も核爆
発だったのか?というように記事にしたものもあった。まともには信じられなかったが、謎の多いこの事件に関心はいっそう高まっていた。
篠田氏はツングースカを訪問したい旨、当時の京都大学名誉教授で花山天文台台
長、火星の研究者の権威として世界的に有名な宮本正太郎博士から紹介状をもら
いロシアの科学アカデミーに手紙を出した。返事はまずこないよ、と言われていたらしいが返事は来た。ツングースカについては無視されたようだが、その代り
当時世界最大の6m反射望遠鏡を見せてくれるという。しかし、カスピ海の近くまで行く程時間も金もない。
いろいろ紆余曲折はあったが、日食のほうはハバロフスク-モスクワ-ケメロボと
いうコースで中央シベリアの観測地へ向かうことになった。モスクワへ向かう
途中ツングースカ付近の上空を通るので、何か変わった光景が見えるかと眼下のタイガを凝視していたが緑の陰影が続いているだけだった。
ツングースカを訪れる企ては2度としないだろうと思った、たぶん篠田氏も同じ考
えだったと思う。
1983年の日食はパプア・ニューギニア、1986年には中国で金環食と、篠田
氏と行動を供にしたがこの頃の日食以外の次の目標は熱気球の元祖かもしれな い中 国・雲南省の孔明灯を見に行くことだった。
流星観測に熱を上げていてIMO(International
Meteor
Organization:国際流星機構)にも入会した。1990年の冬、機関誌に第1回国際ツングースカ調査(ITE1)が行われたレポートが載った。
これは私にとって衝撃的なことだった、が更にNMSの会長・長谷川一郎博士のもとへ第2回国際ツングースカ調査に日本からも参加してほしいとの連絡が届い
た。パソコン通信でこのことを知った私は、すぐに篠田氏へ電話をしたら「こっちもその件で手紙を出したところ」ということだった。1991年はメキシコ日
食があり行くつもりであったが、予定変更、篠田氏とツングースカ行きを決めた。更に神戸の野村氏も行くことになった。
わずかだがツングースカの様子も分かってきた。夏は気温の日較差が大きく、蚊や
ブユ、アブなどの刺す昆虫が多く、湿地が多いなどだが、こんなことでもなか
なか分からなかったことで、どんな装備で行ったらいいのかがやっと見当がつくようになった。
だが連絡がなかなか来ない。
やっと7月の中旬になってから、すぐにワナワラに来いという内容の招待状らしきものが来た。急な展開で、野村氏は今年は準備できないということであった。
大急ぎで篠田氏は大阪のロ シア領事館へビザの手配、私はJTBに航空券の手配に行くが、どう探してもワナワラ空港は見つからないのだ。ワナワラがツングースカ異変地域にいちばん近
い村ということは知っていたが、これはたぶん国内線の空港で外国人は行けないことになっているためだろうとしか考えられなかった。篠田氏のほうも招待状らしきものを見せて交渉したが、これではビザは発行できないという釈然としない対応をされたとい
う。ソ連
が崩壊後のゴタゴタが尾を引いているのだろうし、ロシア人には普通でも我々からしたら不条理におもえることが多い。1991年はあきらめて、翌年にかける
ことにした。
年が変わって1992年春――ツングースカ調査の責任者の一人であるロシア・トムスク大学のアンドレィ
フ氏から、1・2回の国際調査の概要と今年の調査に参加を要請する手紙が届いた。今回はワナワラではなくクラスノヤルスクに来るようにということだった。
今年は絶対に篠田、野村の両氏と行くつもりで早めに準備を始めた。
1992年7月31日、新潟空港で野村さんと初対面の挨拶を交わす。篠田・野村両氏は前日に夜行バス
で発って、今朝新潟に着いたのだった。3名揃ったところですこし落ち着いた。じつは前日から緊張していて動悸で眠れない
し、心臓が破裂してしまうのではないかと思うくらいだった。それだけ今回のロシア行きは期待と不安が大きかった。クラスノヤルスクまで来るようにというこ
とだが、その先の予定がまったく分からないのだ。それにクラスノヤルスクはこの年に外国人を受け入れることになったばかりで、外国人用のホテルなど無いの
ではないかと、ロシアにいちばん実績のある旅行社はいう、さらにクラスノヤルスク行きを手配したのは初めてだ、とも。
8月1日、ハバロフスクからクラスノヤルスクへ。着いたらどうすればいいんだろう、不安だったが、空港でアンドレィフ氏の秘書イリーナさんとオルガ
さ んの2人の女性が『TUNGUSSKA
EXPEDITION』のボードを持って待っててくれた。(下の写真、私がそれをもらって参加者からサインしてもらいました)

小児科病院のようなところが宿泊場所だった。確かに外国人用の
ホテルは無いらしい。翌日夕方、こ こにアンドレィフ氏が来て初対面、気さくで頼りがいありそうで一安心。
そして8月3日、クラスノヤルスクからちっちゃなジェット機でワナワラへ。そこからヘリコ プターで、ツ
ングースカへ向かう。機内で立ったまま眼下のタイガを見ていると隣でモスクワから来た地球化学者のカリェスニコフ教授がいろいろ説明してくれるが、ものすごいエンジン音でほとんど聞き取れなかった。やがて、沼地らしきところに向かい高度を下げた。クーリックの小屋近く、湿地のため着陸できず、地面すれすれでホバーリングしているヘリコプターから飛び降りた。
18時46分、ついにツングースカに来た。ミズゴケが堆積しているせいかふわっとした感じ
だった。