現 象>調査史>ツングースカ異変の調査史について紹介します。

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 ツングースカ異変の調査・研究史                                              



1921年  ロシア・科学アカデミー鉱物博物館のクーリック(L.A. Kulik)、隕石調査のためシベリアを訪れ1908年
                 6月30日に多くの人が大火球を目撃し、大音響が聞こえたことを確認し、隕石(以下、ツングースカ隕石と
                 記します)の落下地をポドカーメンナヤ・ ツングースカ川上流と推定する。

1924年  地質学者オブルチェフ(S.V.Obruchev)はエベンキ人 の話として、ワナワラからそう離れていないところ
                  で森林がことごとく倒れていることを地図を作成し報告。 

1925年    イルクーツク気象台長ウオズネンスキー(A.V.Voznesensky)、1908年6月30日の不思議な地震は
                  大きな隕石の落下に原因があるとの説を発表。

1927年  スースロフ(I.M.Suslov)はエベンキ人から聞き取り調 査をして、ポドカーメンナヤ・ツングースカ川に注
                  ぐ チャムバ川の流域に火球が落下し、森林火災が発生しタイガの木を倒したことを報告。

1927年    2月、クーリックと助手のギューリッヒはツングースカ隕石を捜す探検に出発。4月初めて大規模な倒木地
                  帯 を見る。いったんワナワラに引き返して5月に放射状の倒木群の中心地を発見。

1928年    4月、クーリックと助手のスイチン2回目のツングースカ隕石探査に出発。ワナワラで映画技師が同行。
                 5人の労務者とともに小屋や倉庫を作る。ワナワラからの道(クーリックの道)が作られる。
                 クレータ状の場所(スースロフじょうご)の磁気測定などを行うが、鉄隕石の徴候は無かった。

1929年  2月、クーリックは3回目のツングースカ隕石探査に出発。助手と して天文学者クリノフ(L.A.Krinov)
                  が参加。「スースロフのじょうご」を徹底的に捜したが隕石の痕跡は無かった。

1930年   ギリスの気象学者ホイップル (Whipple Frensis Jone Uelsh)は1908年6月30日の空気波を外国の観測
                 所 で記録した微気圧データを公表。その爆発エネルギーを 3×10^13Jと見積もった。

1933年  クーリックは単独でツングースカを訪れ、航空写真撮影などの事前調査を行う。 
        ロシアの天文学者アスタポビッチ(Astapovich Igor Stanislavovich)は目撃者の証言を整理するとともに、
                  シベリア、ペテルブルグ、スルツクの気象台の新しい微気圧データを公表し、爆発のエネルギーを10^14
                  Jとした。

1937年  クーリックとブルチェンコフI.E. Burchenkov)が率いる測地隊がツングースカを訪れ、三角測量ネットワークを構築した。

1938年  クーリックとブルチェンコフが率いる測地隊は前年に引き続き測地作業を続ける。 
        倒木群の中心地域約250km2の航空写 真撮影が行われる。

1939年  クーリック、4回目のツングースカ隕石探査。ユージノエ沼(南沼)の調査を行い、底に顕著な凸凹がある
                 ことが判明する。

1940年     クーリック、5回目のツングースカ隕石探査を行いユージノエ沼を再び調査する計画だったが中止。

1942年  クーリック、前年に志願兵として戦いドイツの捕虜になりチフスに 感染し死亡。

1946年  SF作家カザンツェフ(A.P.Kazantsev)短編小説 「爆発」を発表。ツングースカ異変のトンデモ説の先駆
                 けとなるが、後にこれに刺激を受けたトムスク大学の若手研究者や学生たちを中心に自主総合調査隊
                  (KSE) が結成 されることになる。KSEはその後真面目な科学的調査の中心となる。

1953年     地球化学者のフロレンスキー(K.P.Florensky)ポドカーメンナヤ・ツングースカ川流域の調査の折に異
                   変地域に入り、倒木やクーリックの小屋が残っていることを確認。

1958年  フロレンスキーを隊長とする探検隊がツングースカ異変地域の調査 を行う。天文学者ゾートキン
                  (I.T.Zotkin)や地質学者ヴロンスキー(B.I.Vronskiy)が参加。探検隊は森林倒壊領域を詳しく調
                  べ、その境界を明らかにし、樹木の早い成長を発見した。また土壌中の球粒物質を採集。この探検によっ
                  て隕石の地表上空での爆発の事実が明らかとなった。

1959年     ヴロンスキーの自主探検隊が調査を行う。プレハノフ(G.F.Plekhanov)を隊長としたトムスク大学の
                 関係 者を中心とする第1回総合自主探検隊(KSE-1)も調査を行う。また核爆発説の地球物理学者ゾト
                   ロフ(A.V.Zolotov)も現地入りする。

1960年     ヴロンスキーを隊長とする科学アカデミー隕石委員会の探検隊、 KSE-2、コシエリョフを隊長とする
        モスクワの探検隊、ゾトロフの探検隊が調査を行う。

1961年     フロレンスキーを隊長とする隕石委員会の探検隊が調査。KSE-3もフロレンスキーの下で調査。

1962年〜
                     KSEがほぼ毎年現地調査を行う。

1990年   第1回国際ツングースカ調査がKSE-32と合同で行われる。ソ連のほかにフランス、ユーゴスラビア、
                  ブルガリア、スウェーデン参加。

1991年   第2回国際ツングースカ調査がKSE-33と合同で行われる。外国からはボローニャ大学を中心とする
                  イタリア隊が参加。

1992年   第3回国際ツングースカ調査がKSE-34と合同で行われる。アメリカ、イギリス、ドイツ、日本から初めて
         篠田皎、野村敏郎、上村が参加。

1994年     安部亮介、篠田皎、第5回国際ツングースカ調査に参加するため集合地クラスノヤルスクに行くが、国際
                   調 査は中止。ガイドとともに現地に入り調査。

1999年   イタリア・ボローニャ大学を中心とする調査隊が爆心地の北約8kmのチェコ湖を中心に調査を行う。

2002年  イタリア・ボローニャ大学とロシアのトムスク州立大学、トムスク 工科大学の合同調査隊がチェコ湖を中心
                   に 調査を行う。